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伊達双騎 感想のような何か


ミュージカル刀剣乱舞 春風桃李巵を観劇した。

現地で1度目の観劇をした時、感じたのは鶴丸国永のアンバランスさだった。任務や役割に対して達観している節があるのに、自分の感情をコントロールできない、強さに身を任せた身内との関わり方、時折見せる無表情……その全てが、彼の不安定さを表しているかのような感じがした。

1回目の観劇を終え、一緒に見た友人と感想を言い合う中で出した結論は、「鶴丸国永の心は1度壊れている」だった。レベルや強さ、本丸に所属する時間と釣り合わない精神の未熟さは、1度形作られたものが壊れたからである、と。そして、その理由は容易に想像ができた。前回公演「江水散花雪」で語られた、初期刀が折れた際の出陣である。形作られた彼の内面は、そこで1度壊れてしまい、だからこそのアンバランスさなのだと思った。

そこで関わってくるのは、三日月宗近の存在である。ここからは私の完全な妄想になるが、三日月宗近と鶴丸国永は互いに信頼し合う、バディのような存在であったのではないだろうか。初期刀のもとで、好き勝手しながら敵を屠る、なんでも分かり合える存在だったのではないだろうか。そしてその関係は、初期刀事件を機に崩れた。「機能」として独自で動き始めた三日月宗近と、あくまで審神者に忠実であろうとする鶴丸国永。唯一無二の存在だったはずのふたりは、完全に道をわかった。鶴丸国永の中に残るのは、信頼する相棒を失った喪失感と、裏切られた怒りだ。それが、彼のアンバランスさを形成したのではないか、



と、ここまでが1回目に観劇した時の見解だ。そして昨日、私は配信で2度目の観劇をした。配信というのはいいもので、表情の細かいところまでしっかりと追うことが出来る。そして、鶴丸国永の細かい表情を見ることが出来たことで、私の見解に穴があったことが発覚した。

注目すべきは、1部ラスト、鶴丸が自分が掘った落とし穴に落ちてそれを大倶利伽羅に助けられた場面である。「驚きだぜ、まさか自分が掘った落とし穴に落ちるとはな」と笑う鶴丸に、大倶利伽羅は「驚いたのはこっちだ」と返す。その時の鶴丸国永の表情は、いつもの笑いが削ぎ落ちた、心底驚いた顔をしている。驚いたと言っても、目を見開いた表情ではない。手が止まり、相手を凝視し、その言葉を頭の中で反芻しているような表情だ。

1度、唯一無二の存在を持つものが、そんな顔をするだろうか。そんな顔をするのは、誰にも1個人として心を傾けられたことがないものだけだ。誰かに心を向けられたあと裏切れらたようなものは、きっとその言葉を笑うか、聞かなかったふりをするだろう。相手からの感情を理解しているものは、その言葉に驚いたりなどしない。鶴丸国永は、初めて、誰かに心を向けられたのだ。

しかしこれは、鶴丸国永の主観である。考えてみてほしい。彼は、それなりに長く本丸に在籍しているのである。今はいない初期刀も、初期の頃から本丸にいる仲間も、きっと鶴丸国永を気にかけ、心を寄せ、信頼していたはずである。私は、鶴丸国永は彼らの想いを長い間全く理解していなかったのだと推測する。

鶴丸国永というのは、矜持の高い刀である。平安刀であり、御物である彼は、気さくでありながらその根底には自分は他の刀とは違うという感情を持っている。そして、そのプライドはそのまま、自分は誰からも理解されることは無いという他者からの理解の拒否に繋がっている。

そんな彼が、唯一理解されたいと願うのが、伊達で共に過ごした仲間、つまり大倶利伽羅と太鼓鐘貞宗なのではないだろうか。200年という、移ろい続けてきた鶴丸国永にとっては短くはない時間を共にすごし、彼らになら理解されるのではないかという期待を抱いてしまった。しかし、彼はその後天皇家の所持物として伊達から離れてしまった。その離別は、「やはり、理解されることなどない」という諦念を彼に抱かせたのだろう。

しかし、1度抱いた感情は消えない。本丸で長くすごした彼のもとに、大倶利伽羅が顕現されたという報が届く。初期刀の事件や任務のあれこれで疲弊していた鶴丸は、彼こそ自分の唯一無二になってくれるのではないかという期待を抱き、彼のもとに向かう。しかし、馴れ合いを好まない彼は、鶴丸国永を見ても何も反応しなかった。その時鶴丸は思ったのだろう。「分かり合えなくても、彼が自分に感情を向ける方法がある」、と。

怒りは、シンプルかつ引き出しやすく、とても大きな感情だ。だから、まずその感情を引き出した。顕現してからすぐの大倶利伽羅が初めに抱く感情が、「鶴丸国永に向けた怒り」になるように。

鶴丸にとっては、それで十分だったのだ。大倶利伽羅は自分に、これ以上の感情を向けることは無い。共に出陣すれば仲間としての認識くらいは生まれるだろうが、それはほかの刀剣男士たちと同じだ。しかし、大倶利伽羅の初めの感情は自分のモノ。鶴丸国永はそれだけを縁に、自分は大倶利伽羅の「特別」であると思おうとしたのだ。

しかしこれは、大倶利伽羅にとってみれば意味のわからないことだ。200年来の付き合いで、それなりに気心が知れていると思っていた相手に出会い頭で殴られる。それも起き上がれなくなるくらい。悪びれもしない。一緒に出陣した挙句、「悪かったな、背中を任されもしてないのに手ぇ出して」。背中を任せようともしなかったのはお前だろうが。折られたと思い自身も傷だらけのなか駆け寄ったら死んだ振りをしていただけだった。そりゃ殴りたくもなる。そして、私たち観客の視点は、間違いなくこちら側なのだ。

死んだ振りのことを書き忘れていたのでここで書いておく。鶴丸としては、血だらけで倒れていた自分が起き上がったら大倶利伽羅は「ふざけたことをするな」と怒るか、「なに馬鹿なことをしているんだ」と呆れるかのどちらかだと思ったのだろう。しかし、大倶利伽羅の反応はどちらでもなかった。その目には、心からの怒りがあった。そして、嘘でよかったという感情もあったのだろう。だから反射的にその拳を掴んでしまった。向けられるはずのない感情を受けて、どうすればいいのか分からなかったのだ。そしてその後の「悪かった」は、私たち観客が今までに見た事がないくらい素直な彼の表情だった。そこに、彼の本心を隠す仮面はなかった。

閑話休題。私が出した結論を言おう。

ミュ鶴丸は、元から他人からの感情に疎い個体である


ここまで述べてきた鶴丸像は、私が見てきた活劇や花丸の個体にはあまり当てはまらないと思っている(ステは未履修である)。そして、今回の公演はその特異性を全面に出したものであったのだろう。

そして、今回の出来事で、鶴丸国永は大きく変わった。大倶利伽羅からの感情を、受け入れることができるようになったことである。前述した死んだ振りの件、そして落とし穴の件を通して、鶴丸はやっと「大倶利伽羅にとって自分は特別な存在なんだ」と思えるようになった。その結果が、パライソでの2人の関係なのだろう。

そして、大倶利伽羅からの感情を受け入れたことで、鶴丸は「自分を理解する人はいる」と思えるようになった。これは、パライソでの豊前とのやり取りにみえる。春風桃李巵以前の鶴丸ならば、きっと豊前のあの言葉を聞き入れることはできなかった。そういう意味でも、大倶利伽羅の存在は鶴丸に大きな変化をもたらしたのだろう。



ミュージカル刀剣乱舞 春風桃李巵は、大倶利伽羅の成長物語であり、鶴丸国永の成長物語であった。そして、鶴丸クラスタの私たちにとってこの公演は、刀ミュにおける彼の内面を知るバイブルのようなものになった。この公演内容を噛み締めて、次の公演までにまた解釈を深めたいと思う。

また、繊細で複雑な鶴丸国永の内面を余すことなく演じきった岡宮来夢さんに対しては、感謝の意を表すことしかできない。彼の演技でしか、伝わらないものがたくさんあった。本当にありがとうございました。

さて、鶴丸国永について書いてきたが、初期刀云々に関してもまだ言いたいことがある。これに関しては、また別のnoteにまとめたいと思う。

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