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聖書読みましょ♪Re-Collection第50回 生ける水とはなんだろう?
メシア・イエス・キリストの生涯27回
「サマリヤの女との対話」その2
ヨハネの福音書第4章4節~15節
こんにちは!まいむまむです。
イエス様の生涯について4福音書を並べて、時間順に読んでいます。
毎回申し上げますが、わたくしは、「ハーベスト・タイム・メッセージステーション」というyoutubeチャンネルの中川健一先生の講義「メシアの生涯」にそって読んでいきます。
興味のある方は、ぜひぜひ、先生の講義を直にお聞きになってくださいね!
引用している聖書は「新改訳2017」版です。
また、参考文献は新実用聖書注解になります。
本日のご紹介はこちらです。
イランの民族楽器サントゥール ――その幻想的な音色の世界
いきなりですが、イランの音楽です。
非常にキレイな音色ですよね。
いろいろ世界情勢がなんですが、
音楽はすばらしい。
ということで、ライブあります。
![](https://assets.st-note.com/img/1702884301450-O8WPcVdZxe.jpg?width=1200)
「イースタンジャスミン」というイラン民族音楽のバンドです。
イランの冬至の特別なイベントもあるそうです。
「音や金時」さんは、予約なしでも大丈夫みたいです。
ちょっとエスノな冬至の夜を過ごされるのはいかがでしょう。
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さて、前回、その1で、ユダヤとサマリヤの仲の悪さの理由を学びました。
このサマリヤにイエス様は入られます。
大丈夫かしら。
Ⅰ 新しい命の啓示 ヨハネの福音書 第4章5節~14節
・ヨハネの福音書 4章 5節~6節
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
イエス様はエルサレムからガリラヤに向かう途中に、
サマリアの町に来られました。
この方向は、サマリヤ人に許されている方向でしたね。
![](https://assets.st-note.com/img/1702886714036-N4zp9ZsP1a.jpg?width=1200)
それでも、ほとんどのユダヤ人は
サマリアの町を通過しない方法で
ガリラヤに向かうのが普通でした。
「ヤコブの井戸」というものですが、
旧約聖書には、この井戸についての記述はありません。
伝承として残っているのですね。
「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。」
イエス様もお疲れになるのですねー!人間ですもんね。
別にスーパーマンではないのですよね。
多分、ぼーっとしておられたのでしょうね。
「時はおよそ第六の時であった。」
この第六の時が何時ごろかは、いろいろ意見が分かれるようです。
ユダヤ式なら、午前6時から数えはじめますから、正午頃となります。
ローマ式なら、午前0時か午後0時から数え始めるので、
恐らく午後6時頃となります。
中川先生のご意見では、ローマ式の方であろうということです。
普通、水汲みというものは、朝するもので、
夕方6時は誰も水を汲みに来ない時間だからとのことです。
(夕方に水汲みをするという意見もあります)
ヨハネの福音書においては、
もっぱらこのローマ式の時刻表記が使用されていると、
中川先生はお考えのようです。
なぜなら、このヨハネの福音書が書かれたのは、
ユダヤの国が滅亡した紀元後70年の後に書かれたものだからです。
よってユダヤ式にする必要がないということですね。
・ヨハネの福音書 4章 7節~8節
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1702883517556-81kSoZEpI3.jpg)
サマリアの女が、夕方6時頃に水を汲みに来るのは、
人目を避けるためでありました。誰にも会いたくなかったのです。
(理由は後でわかります)
その女に、イエス様が語りかけています。
これが、非常識なことだったのです。
まず、①公の場所で、男性が女性に語り掛けることはありませんでした。
さらには、
②ユダヤ人がサマリヤ人に語り掛けることはありえませんでした。
ありえないことがもう一つあります。
③イエス様は、「水を飲ませてください」とお願いしたことです。
別にいいじゃん水くらいと思うのが我々日本人ですが、
そういう問題じゃないようです。
ユダヤ人はサマリア人に借りをつくることを良しとしなかったからです。
ユダヤ人がサマリア人にものを頼むときは、必ず代価を支払いました。
世話になりたくないからです。
それなのに、イエス様は、水をちょうだいということで、
自らを負い目のある立場に置いたのです。
これが3つ目の非常識。
普通のユダヤ人のラビならば、のどの渇きを我慢してでも、
そのままやり過ごしていたはずなのですね。
サマリヤ人を見るのもイヤなのですから。
イエス様は、実にさりげなく、
人種的、宗教的、社会的壁をぶち破ってこの女性に語りかけたのです!!!
これって今っぽくないですか! 静かなる革命ですね!!!
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・ヨハネの福音書 4章 9節
9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
この女性の驚いた理由は、
サマリア人とユダヤ人の長い歴史的憎悪の背景のゆえでした。
なまじ、他人より近い民族なので、
さらに憎ったらしいのですよね。
「ユダヤ人はサマリア人とつきあいをしなかったからである」
「つきあい」という言葉は、ギリシャ語で「スンクロマイ」(シンクロの語源)といいます。
シンクロは、一致するという意味です。
ユダヤ人は、サマリア人と同じものを共有しない、
すなわちユダヤ人ならサマリア人の使った器を使うことなんてありえないということです。
つまり、何回もくどいですけれど、
イエス様がサマリア人の女の使う器で水を飲むなんてことは、
非常識なことであったのです。
・ヨハネの福音書 4章 10節
10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
「生ける水」ということばが出てきましたね。
「生ける水」とは、ユダヤ的文脈では、「動いている水」を指します。
すなわち、泉、川、海などの水で、貯水槽などの水ではありません。
![](https://assets.st-note.com/img/1702887976257-x6WqpSEix3.jpg?width=1200)
そして、イエス様はさらに深く「聖霊」のことを指しているようです。
ここで、この女性は、???が飛びまくります。
「この人は誰や?」「神の賜物ってなんや?」「生ける水ってなんや?」
そら、わからへんわなあ。
・ヨハネの福音書 4章 11節~12節
11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
おや、何か、イエス様の呼び方が変わってきましたよ!
最初は、「あなたはユダヤ人」(軽蔑のニュアンス)⇒「主よ」と変わってきましたね。
この「主よ」ですが、ギリシャ語では
「キュリオス、呼びかけでキュリエ」となっています。
これは、英語で言うと「Sir」 になります。
ですから、日本語にすると「だんな様」、
もっとくだけていうと
「ねえ、だんなさんさぁ、あんた汲むものもってないじゃない」
という感じだそうです。
この女性は、疑いの心を持っています。
「あなたは、水を汲む道具も持ってないし、井戸は深い。
あなたは、私たちのご先祖より偉いのかい?
そんなことないでしょ。
偉くないのに、ご先祖様のヤコブが与えてくれた水より優れた水を与えることがなんでできるのさ?」
という感じです。
この女性の関心は、現実の水のことに集中しています。
イエス様がそれ以上のことを仰っているとは、気づいていません。
だから、なんだか会話がかみ合わないのですね。
・ヨハネの福音書 4章 13節~14節
13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
ああ、難しいことを仰いますねー。
一回聞いただけでは、さっぱりわかりませんよ、これは。
イエス様は霊的なお話をされているのです。
現実の水を飲んでもまたのどは渇く。
しかし、イエス様の与える水を飲むなら、そうではなくなる、もう渇くことがない。
その水は、心の中で泉となり、
永遠のいのちの実質を体験できると仰っているのです。
これは、聖霊の働きであるということです。
イエス様ご自身も、どうやら、
のどの渇きが消え去っておられるようです。
生ける水があふれて来られているのでしょうか。
すごいなあ。
・ヨハネの福音書 4章 15節
15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
この「主よ」も「Sir」のままです。
「だんなさまぁ」のまんまですね。
相変わらず、現実の水に固執していますね。
「永遠のいのちへの水」ということばを聞き逃していますね。
そりゃそうだ!いっぺんに霊的な認識まで飛べるわけないですよ!
日々の現実の生活に向き合って、
いっぱいいっぱいの私たちにとっても、
「永遠のいのちへの水」と言われても、実感がわきませんよね。
イエス様は、ここで驚くべき発言をされます。再び奇跡!
続きはその3で!
🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺🏺
お祈りします。
天の父なる神様。
私たちは、まだ渇くものです。
生ける水を内にいただけるように、
イエス様のことばをさらに聞いていきたいです。
この渇きに感謝して
イエス様のお名前を通してお祈りいたします。
アーメン。
次回は27回その3
続けて「サマリアの女との対話」を読んでいきますよ。
ハレルヤ!
「メシア・イエス・キリストの生涯」第27回
「サマリヤの女との対話」その3
ヨハネの福音書第4章15節~第4章26節
です。
シャローム!