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蕨市・見廻り隊4(蕨宿)

  荒川から蕨宿に入る中山道、当時の「戸田の渡し」です。慶安2年(1649年)、幕府から32条からなる触書が公布されました。庶民が旅に出るには、領主や村役人の許可が必要となり農民には土地に緊縛させ自由を与えず日常生活の細部に関わる事まで江戸幕府は干渉しました。
 中山道など街道の宿場近くの農民は特に労苦が多かった。農繁期でも不足人馬を補充する助郷に駆り出される、蕨宿の重い負担でした。

明治24年、武蔵野を廻った正岡子規の句、
「雲助の睾丸黒き榾火哉」・藁火ではなく榾火(ほだび)、冬の季語。
「春の水蕨の中を流れけり」・後日、爽やかな句を残しました。


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