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文京区・見廻り隊1(伝通院)

 小石川の浄土宗・伝通院の山門です。院内には徳川家康の生母・於大の方を始め千姫等の徳川家のお墓があります。芝増上寺の末寺になる伝通院なるには、「丸に違い鷹の羽」の家紋を持つ小川一族の墓もあります。

 「関ケ原の戦い」で一族の小川祐忠・祐滋父子は、石田方の西軍に加わった。脇坂安治、朽木元綱、赤座直保の4人で、東軍に寝返るかもしれない松尾山に陣取る小早川秀秋の監視役だ。戦いが始まり、予想通り小早川軍は東軍に寝返ると、監視役の4人も東軍に寝返ってしまい勝敗は決しました。
 この「関ケ原の戦い」の論功行賞では、小早川秀秋が大幅な加増、脇坂・朽木・赤座の3家は本領安堵。小川父子は家康公に通知なく東軍加わった罰として所領の7万石を没収される改易でした。
  小川祐忠の戦歴は、近江・六角の家臣から始まる。織田信長に敗れると織田の家臣となり、「本能寺の変」後は明智光秀の家臣に、柴田勝家の家臣へから豊臣秀吉の臣下となり7万石の城主まで昇りつめた近江小川一族。
 家康公は諸侯の手前、小川父子の武士に有るまじき変わり身を嫌ったのでしょうか処分は厳しかった。世渡り上手の藤堂高虎は7度も主君を変えました。
 その後、豊臣問題が片付き一族へのほとぼりがさめると、祐忠の子・祐滋は九州の7万石領主に返り咲きます。
「体中にしとど汗ばみこころよく空気のかわく街をわが行く」・古泉千樫

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