はじまってくれ

なにかというと、

私は常にすごくぐらぐらしている。揺れている。首が座っていないひとみたいに背骨がないみたいに、ふにゃふにゃな状態で生きているみたい。

他人がよいと思ったものや、逆に嫌だと思ったもの、
言われたことやひとの考えにすがって、それを支えとして生きている節がある。それがないと生きられないみたい。
ひとに生かされているとはこういうことを言うのかもしれない。

趣味嗜好も、しゃべり方も、笑うときのしわの寄せ方も、インスタのいいねを押すボタンも、選択肢を絞るときも、自分がなんとなくあこがれている、好きな人で誰かが先陣を切っていたらそのあとを追うように選んでいく。
誰かになりたくて、何者かになりたいジレンマはずっと続いている。

本を買うとき、服を買うとき、電車に乗ってどこか行くとき、まったくの己の衝動で欲望であるのは間違いない。けれど、どこかで「あの人」の世界観を意識して、色を意識して、混ぜている。混ぜない混ぜないと思うほど意識して。どこからやってきたのかわからない雑念ようなものがあっという間に私の中を支配していく。結局わたしはどこなのか、最初の甘美な一口目を忘れて、絵具で黒を少しでも付け足したら色が濁っていくいっぽうみたいにわからなくなってゆく。ここでは、「私がほんとうによいと思う感覚はなに、私がほんとうに好きなものはなに」という「私」の「純粋な感覚」に「戻ろう」とすることに拘泥している。窮屈だ。
だれかの考えに声に助けられ光が見えたような感じで恍惚とする一方で、かき混ぜられてほんとうに”自分にとって”良いものがわからなくなって鉛みたいに動けなくなる。
自分が良いと思うものを「良い」と思うためにはまわりの「承認」が必要。
社会的に認められてはじめて自分の好きを認めることができる気がする。

自分の頭だけで考えると渦を巻き前にも後ろにも動けないのだけど、「誰かほかのなにか」と思われるものは決して悪ではない。「それがないと生きていけない」「自分にはどうしようのないもの」みたいに付着しては寄生し、しまいには私の一部になる。何か別のもの、異物に出会ったとき、何かが決壊して流れ出す。化学反応を起こす小さな爆発とともにエンジンがかかる。こうして生かされてきたような気がする。「誰かのなにか」を自分のなかにとりこむことで、これまた自分というものを形成してきた。

だから最近、「他人が良いと思うものではなく自分が良いと思うもの、を信じてやっていこう」みたいな「オンリーワン」を基準とした判断軸がぶれてきて、何を信じたら良いのか、頼れるものがどんどん形を消して迷子。スイスイいかないな~~
自分で決めたものに対しても誠実になれず、責任を持てず、何かつかめるものを探している。ほんとこういうところ。またこれだ、上手な付き合い方を知らない。
なにをしようか、なにがしたいか、妙な不安と焦りともに、私のアイデンティティ、私の輪郭はぐちゃぐちゃに、ぐにゃぐにゃに崩れている。もともと整ってもいないものだが。

なにを探求したい?
なぜそんなに探求することに固執している?
人生にテーマを求めている?
そもそもそれは必要か?「必要」という概念は何か目指すものがあって、それを見据えたときに「足りない」と見なされるものだとしたら、私が見据えているものはなに?それがはっきり見えない。

なにが見える?なにを見ようとしている?
”はやく”


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?