小さな島

碇泊するときに波が渦巻いて巻き取られにいく感じ。
小さな島だ。ほんとに小さい。
風が吹く。生暖かい、というか生冷たい、みたいな
秋が夏にようやく追いついてきたような天気。

休みができたので、男木島に行ってきた。

より長い時間をここで過ごしたいと思った。
腰を据え、ゆっくりここで息をしてみたいと思った。
男木島の記憶はその景色や人の会話などが風景としてぼんやり残っているが、言葉にこうしてとどめておきたいと思ったので、筆をとり、パソコンを開いたわけである。

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船を降りるまえから、斜面に連なった集落を見たときから「好き」が沸々と湧き上がってきた。

フェリーの船員さんの仕事感がかっこよくて目で追ってしまう。4人くらいの世代の異なる船員たちがフェリーの前で客の案内や客待ちをしているときの余裕っぷりがかっこいい。
ヘルメットを着け、青い制服を身に着けた男たち。島のおばあちゃんに段ボールの荷物を受け渡す。島の日常を垣間見た気がして嬉しい。

よく海にポツンと一人でいるような白い椅子に座ったおじちゃん。
にこにことこちらを見てめっちゃ手を振る。「こんにちは~!」って。
まるで知り合いに挨拶するかのようなテンションで挨拶するので一瞬戸惑ったが間もなく私も元気よく挨拶を返す。挨拶の良さは元運動部の特技。

細い坂道に続く階段を、鳥居をくぐって登っていってすぐ、
「ここから先は民家です」という、夏の青すぎる空みたいな色をした新しい看板を見つけた。setouchi triennial の文字。
意気揚々と男木島を「巡ろう」と考えていた完全に観光客である私を一瞬どこかに陥没させた。
あくまで住民の土地であり、観光客という存在は異質。
島の人がどう思っているのかわからないが、観光というものがもたらす功罪を意識してしまう。

「観光」とは何をもたらすのだろう?
帰りのフェリーで誇らしく、一丁前のカメラで撮った写真をひけらかす人
音のない図書館をカフェとして使い、颯爽と帰っていく人
民家すれすれの路地に入って感動する私

観光は、どうしても観光客側の一方的な享楽にしかすぎないと感じてしまう。「観光」という行為は場所によっては(場所に限らず?)かなり倫理的にアウトである。
普通に、自分の家の周りを知らない人がうろちょろしていたら嫌だし、それが当たり前の状況になっているのも怖い。
そして、それを理解しながら旅を止めない自分はもっと狂気的だと思う。
住民との距離が近い遠い、とか、都市と地方の差で薄まる問題とも思えない。

自然、人、食べ物、街並み、その地域にあるものを「魅力」と語り、外からの人を誘う理由を用意する。正当化される観光という行為。

いろんな人のために存在している観光であることは理解できるが
けど、やはり観光を推進していくにはいろんな視点が抜け落ちているような気がする。

もちろん、観光は地域経済に資するとか実質地域にもたらすものは大きいのかもしれないけれど、そこが本質なのかどうかはわからない。地域経済を回すために観光が利用され、それによって住民の生活が脅かされているようなら本末転倒である。その土地の人がどのように感じているかは実際に聞いてみないとわからないから何とも言えないし、「観光は住民の生活が豊かになるためにある」とか「いや、観光は観光客と住民との軋轢を生むから良くない」とか言って、外野の自分たちが住民の生活や幸福にまで干渉するのは不自然だとも思う。

というかそもそも、「観光=誰かのためにある」みたいな意義とか目的も絶対的ではない。そういったことを考える必要があるのかどうかも。

「観光」という行為を「旅」という概念を、多面的に理解し、議論する必要性。

観光ってなんだろう。
観光は何をもたらすのだろう、何のためにあるのだろう。
もはや「誰のためにある」とか目的とか意義とかを考えるのも途方もないことで、割り切ってしまったほうが楽なのか?
何かのためにあるであろう観光、極端にいえば何かを破滅させる力も持っているもの。
観光の仕方、「正しい観光」「正しくない観光」「消費する旅」「創造する旅」
その中身はなんだろう。

観光というそのものについて、誰かと話したくなった。




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