(ゆうがな日曜日)

昼下がりの公園
現在現実逃避真っ最中だ。やらなきゃいけないことが山積みなのに、
「外の空気を吸いに行こう」とか訳の分からぬ都合のよい言い訳をして反射的に家を飛び出した。

はあ、いつもそれで困るのは自分だとわかっているではないか。
ギリギリ人間。私に代名詞があるとしたらこれではないか。知らんけど。
「ぎりぎりでいーつも生きていたいから~~あ~あ~♪」という曲を思い出した。
そう生きていたいわけではないが、結果的にそうなるように選択していってるのだから、「生きていたい」ということになるのかもしれない。知らんけど。

おばあちゃん×3 おじいちゃん×1の公園の中ベンチに座る

「ピロリンってなんかなってたよ」
「あらそう?」
「なんとかかんとかかんとかだって。うふふふ。」

息子夫婦だろうか、孫かな。
誰からメールが来たんだろう。
隣にバッグがある。中に水筒が入っててその中に入ってるお茶を2人で飲んで、ときどき飴を出して食べたりして。
想像膨らむ加賀第一公園。

いやまてそれはうちのおばあちゃんだ。
よくお墓参りに行く車の中でドラえもんのポケットのように出てくる飴コレクションと蓋をコップにするタイプの水筒。
秘密兵器みたいにバッグから登場する。
おばあちゃんはあめを瓶に入れるタイプの人だ。
あめを瓶に入れるタイプの人ってどんなタイプだろう。

なんかいい夫婦。こういう日曜日の昼に公園に座って時間を共に過ごす夫婦、なんて素敵なんだろう。見ているだけでほっこりする。

自転車の絵文字とともにメッセージが届く。
ひのあたる~さかみちを~自転車でかーけのぼーるう~♪の曲がながれているらしい。
ジブリメドレーを流すところが好きだよ。

私は、誰かがスコップで砕いた氷を竹ぼうきでかき集める音をBGMに本を読む。
シャアアアと、尾を引く、薄ーーく膜が張られていくように、耳の奥に薄ーく残るような、いやむしろ耳の外にうすーく出ていく広がっていくような、余韻の残る音が心地よい。
シャラシャラと、くすぐったいような細かい広がり。

雪が降って、その家の人が微妙に雪かきを残していたゆえに出会えた音。

まさかこの家の人はミュージシャンかなんかで、前々からこのシャラシャラとした音の創造を狙っていたのか。
いや、ただ面倒くさかったから雪かきを残しておいただけな気がする。
いや、「面倒くさいと思って」は失礼だから、雪かきをしたけど、ちょっと雪の方が手強くてかききれなかった結果。
でもやっぱり、「まあ、これだけ雪かきしてればいいだろう」という緩み(であってほしい)(自分の勝手な想像)がもたらした音に嬉しくなる。

穂村さんの本を読んで鼻で笑おうか(普通にめちゃくちゃ面白くて)と思ったら普通に「フッ!」てかなりの声が出てしまった。
セーフ、誰もいないから大丈夫だ。

本を読んでいると、雪がシミシミと溶けてゆく音が聞こえる。
なんか嬉しい。
そのような、ベンチの下の、小さな営みに耳を傾けられたことがなんだか嬉しい。

誰かもわからない、顔もわからない人の会話を聞く。
後ろを振り返って顔を見ようかと思うけどあえて見ないのがミソ。たぶん。
この2人はどういう関係?近所のひと?何かの会が一緒の人?
おばあちゃんの友の会とかスポーツ推進委員みたいに。

ああ!すみません!
いえいえ大丈夫ですよ、全然!
のやりとりがもう2.3回続いている。
なんだ?何に対してすみませんなんだ。
ワンコがおばあさんの足元に来ただけか。
それとも、甘えるときみたいに足をズボンに乗っけてしまったのか?
おばあさんは犬が嫌いなのかな。
でもそんな感じの会話や雰囲気はしていない。
なんだ、なんだ。

そういえば、おばあちゃんは友達が多い。いつも楽しそう。
おばあちゃんのお友達がね。って楽しそうに話す。
そうそう、おばあちゃんは「お」をつける率の高い上品な人だ。
私もこんな上品な人になりたい、と思う。
おみかん、お豆腐、お肉、はもちろんのこと。私だってお肉だったら言うよ。お豆腐は言わないけど。
だがしかし、おばあちゃんの本領発揮はここから。
「おりんご」。パワーワード。
りんごに「お」をつける概念なんてあったのか。
おりんご食べる?まみちゃん。
年寄りは指が太いのよ、と言っていつからか曲がってきた第一関節のある手で「おりんご」を切り始めるおばあちゃん。

かわいさと上品さを、絶妙なバランスで兼ね備えたおばあちゃん。
どこからか取れた家具のパーツを飴じゃない?とかいってペロンと舐めてしまうおばあちゃん。
ひつじの靴下はいて、これあったかいのよ、って見せてくれるおばあちゃん。
すっごいフリフリのエプロン着てたかと思えば、ある日はバチバチの迷彩柄のエプロンでキメてくるおばあちゃん。
と、無意識に、本当に何の意味もなく、唐突に、「まっちゃん!」「まっちゃんだなあ」「まっちゃん…」と昔の同級生らしい(おばあちゃん談)人の名前を様々なバリエーションで繰り出すおじいちゃん。
おじいちゃんの脳の中に浸食してくる「まっちゃん」が気になって仕方がない。

誰なんだ、「まっちゃん」。

昔はおばあちゃんの手から、よく、チョコチップの入ったスティックパンの匂いがしたものだ。
流石に今はかげないけど。
毎晩、おばあちゃんの手からは違う匂いがした。
その日作るご飯によって変わるにおいが好きだった。
今もおばあちゃんの作るごはんは大好き。
こんにゃくをちぎり倒してつくる豚汁。おばあちゃんは「ぶたじる」という。
カレーも具材がゴロゴロ。
おばあちゃんの作るごはんは具材が大きい。
ショートケーキの一切れを若干3口で食べるほどおばあちゃんの一口が大きいから具材が大きいのか、はたまたその逆か。

人間観察が好きになったのは、おばあちゃんを見ていたからかもしれない。
知らんけど。

バドミントンをし始めた家族。
子ども:下手すぎるよ〜〜!!
正直ーーー!潔くてすき。
あと私は子どもの、マスクが下がっちゃって鼻がいっつも出てる感じが好き。
元気がなんぼ。
子どもは自転車で駆け回って近所で人の家の駐車場勝手に入っちゃって鬼ごっこして縁側で汗だくになりながらスイカとか食べて走り回るのが仕事よ。

ほのぼの通り。
今はほのぼの、というより、ほのほの、へのへのしている感じだが。
トマソンを探してまちを歩くのが好きなひとを好きになってから、まちの見方が一つ増えた。
トマソンを探して歩くと、ほのぼの通りがいつもと少し違って見える。

トマソン的な目線から言うと、「新築」が増えていくのはちょっと寂しい。
「古い家」というものの「隙間」から見えるもの、年月が積み重なったものから垣間見える面白さ、ニヤリポイントがあるものだな、と思う。

家に帰るまでの道で、誰かと誰かの話す声が聞こえて、静か―な日曜日の、自分の地元が、
昨日までよりも、また少し、好きになった。

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