真鶴へ

2021年12月中旬。
まちにまった真鶴へ。岡山から東へ、久しぶりの18きっぷ旅。

何から話そうか。
この文章を帰りの電車の中で夢中に書いている私は何から書こうか何から話そうかそわそわあせあせ。

物語の中を歩く

來住さんから真鶴の歴史や地区について教えていただいて、スタッフのみゆきさんとまちあるきをさせていただいていると、

真鶴を構成する一つ一つの要素が宝物で、
それは石垣だったり、道路だったり電柱だったり、家になる木だったり、
真鶴に住む人の生活を構成する一つ一つの小さなものに宿る想いがあって。

昔リゾート法ができて、真鶴にもマンション建設の波が押し寄せたとき、それに反対して、真鶴の景色を壊さないように、守るために1992年に当時の町長を中心となってできあがった「美の基準」

真鶴の景観を構成する、真鶴に住む人々が暮らしながら守ってきたものを可視化して、言語化することで、後世へ「真鶴らしさ」を伝えていく。
真鶴にやってくる人に、真鶴らしさとはどのようなものなのか、それを考える余白を、住民自身が見出す余白を残しながら伝えていく「美の基準」。

小松石など、地場産のものをできるだけ家をつくるときには使おう、だったり、家の裏の細い路地を「背戸道」と名付けて真鶴らしい空間を守ったり、実のなる木を植えることを推奨して、真鶴の風景に緑を宿したり、家の色も、真鶴役場には色のパターンがあって、新しく家を建てる人は役場と家の色を相談して決めたり、、、(自分の記憶で話しているので、間違っている点があったらごめんなさい。。)

まちの景観を構成する一つ一つの要素にストーリーがあって、それが見える形になっているのか美の基準で、さらにそのストーリーを伝えるのが真鶴出版さん、というまちの中の「翻訳者」

そういうストーリーがあるから、まちを歩いてそれを読んでいく、それを見ていく楽しさがある。
至るところにあるまちの工夫を知りたくなる。
真鶴というまちのことを土地のことをもっと知りたくなる。

みゆきさんが、「真鶴って『真鶴らしい』としか言えないですよね」と仰っていた。

誰かが、意思をもって、それは確固とした強いものでなかったとしても、少しふんわりとした、なんとなくまちが好きだなあとかっていう想いとかでもあるのだと思うんだけど、
そういう誰かの想いがあって、まちの人が守ってきた空間はすごく愛おしく感じられるなと思う。

まちの風景一つ一つに宿るものがあるから、
その一つ一つを拾い上げたいと、見てみたい、と一歩ずつ、丁寧に歩きたくなる。
宝物として存在する、小さなものが真鶴というまちを構成している。

のぞきたくなる道がたくさんある。
すーー-っと深呼吸したくなるまちの隙間がある。
耳を澄ませたくなる海の音やまちの音がある。
どこからか聞こえてくる歌謡曲だったり、トンビの声だったり、
kennyさんで流れてて頭から離れなくなった魔女の宅急便のテーマ。
「魔女の宅急便」のイメージが、そのまま真鶴に投影されて、海沿いを歩いて家が丘に坂に沿ってバーッと並ぶ風景を眺めながら歩く私はすっかりキキ気分。早口言葉か!

ともかく、美の基準が筆頭となって、?小さな風景だとしても真鶴の価値ある「宝物」として守ってきたからこそ「真鶴らしさ」という独自なものが出てた、「真鶴は真鶴なんだ」というみゆきさんの言葉が、たった一泊しかしていないけれどなんだかわかるような気がしました。

「観光」???

これは尾道でも感じたことなんだけど、
普通~の日常が静か~に流れる場所を歩いていると、「私」という外から来た人がそこを「観光」の対象として歩いていることに妙な違和感を感じてしまう。

路地とか、人の生活がよりダイレクトに感じられる場所を歩いていると、「いさせてもらっている」「日常の中に入らせてもらっている」という感覚がより一層強くなる。

面的に広がった、繋がった日常の中に、ポツンと、浮いて見える私。ぽこんと浮いて、飛び出ている私。

「観光客」という言葉がむなしく感じる。とてもむなしく。

ちょっと尾道の話にはなってしまうけれど、
びっくりするくらいの大音量なテレビの声がどこからともなく聞こえてくる
すぐ隣の家の人が温泉に入っていく
おばあちゃんたちが道端で方言で話している
千光寺の頂上から聞こえてくる造船のサイレン
左からは電車が走る音
何があるかな、どんな景色があるのかな、と吸い込まれるように誘われる路地がある
カレーの匂いがしたと思ったら猫がいた
ちょっと曖昧な、くにゃんとした階段がとおる

そんな、ふとした、なんともないような、ちょっとした風景を、人間味を感じる、人の生活が染み出した感じを感じるたびに、
そして一番は、歩いていて、まちの人と会うたびに、挨拶を交わすたびに、

そのまちの人と出会った、少しあったかくなるようなほっこり感を感じると同時に、
観光客と住民が「出会ってしまった」感というか、なんというか、少し、適切な言葉ではないかもしれないけれど、ちょっとした「罪悪感」のようなそれに似た感情を覚える。

そのまちに住む人にとっては当たり前の光景で、日常なんだけど、私にとったらそれは珍しくて、出会った風景一つ一つを自分の中にとどめておきたい。記録しておきたい。という一心で、カメラを向ける。シャッターを押す。
なんだかその姿をふと外から見てみると、どこか滑稽で、情けない感じがする。

その「日常」を「非日常」として「楽しむ」。
「まちのことを知る」ことには「まちの景色を見る」ことが含まれる、というかそうやってまちのことを知っていく。
だけど。それが、観察対象のように、観察対象なのかもしれないけれど、珍しい美術品??のように見てしまうこと、「非日常」のものとして見てしまっている、
節が少なからず自分にはあるのかもしれない、と気づいた。

地域のことを「知る」という過程の中で、「見る」という過程の中で、

「観光客」は「観光客」でしかないのかもしれないけれど、そして傲慢な考えかもしれないけれど、
もう少し、地域と、地域の人と距離が縮まった状態に、心的な距離が近い状態になることができるのなら、それはどうやってまちを歩くことなのだろう。どうやって知っていくことなのだろう。
ただ、「静かにする」とかそういう単純な話ではなくて、うー-ん。

まちの翻訳者としての宿泊施設

真鶴出版さんは、宿泊者の人へ向けて、まちあるきの機会を設けている。

旅行でもなんでも初めてくるまち、というのは知らないことが多くてワクワクする一方で、知らないから、どこから知ったらいいのかどうやって知ったらいいのかわからなくてあたふたする。し、自分では知りたくても知りえない情報もある。

だから、こうやって「まちあるき」という「まちを知る機会」があるのはすごくすごくありがたいことで、真鶴に住むスタッフさんから真鶴のことを、真鶴に宿るストーリーを教えてもらうのは本当の楽しい。みゆきさんは真鶴に移住されてきた方で、「外」の視点も交えながら真鶴の面白いポイントを知れる、知りながら歩く、歩きながらまちの人と会って話して、最後には一緒に居酒屋に行っちゃう、みたいな流れがおもしろくて楽しくて。

宿泊施設の役割。なのかな。宿泊施設に限定するものではないとも思うのだけれど、
まちの中で「翻訳者」として、外の人と地域の人を、その土地を繋ぐ存在となっていることをすごく感じた真鶴出版さんのまちあるき。

まち歩きがあったから、自分一人でまちを歩いていたら絶対知りえなかったこと出会えなかったであろう人に出会い、まちのストーリーを知り
真鶴というまちをみるいろいろなレンズを手にしたら、もっともっと真鶴のことを知りたくなった。

まちのことを伝える、という役割の大きさを感じました。

真鶴出版さんの宿泊がまた、再開されたら、真鶴という土地に、來住さんやみゆきさん、真鶴の方々にお会いしにいきたいなあと思います。

また必ず。
ありがとうございました。





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