お盆ですよ


飽和状態

最近、「飽和状態」になっている。
お盆が迫ってきて、毎日ルーティーンでやるものに一日の大半を占められている。
掃除、予約の管理、ちょっと休んで、チェックイン、疲れて帰る、まだちょっと惜しくて、結局遅寝、で疲れが残ったまままた次の日へ。

疲れがたまる程、悪循環が加速する。
嫌なことが重なったり、忙しくなったりすると人との会話も粗雑になる。
やりたいこと、やろうと決めたこと、山ほどあるのにどれもできていない。
何か別のものにエネルギーを吸い取られている感覚、それも錯覚なのかもしれないけれど、今は「変化」を求めないように動いている自分がいるな、と思う。
「精一杯」というより、「もう満足」

お盆が抜けたら余裕ができて「やりたいこと」もできるようになるのだろうか。「頑張ろう」と思うのだろうか。
でも今の自分には、毎日を淡々と過ごして、エトワールでちょっとゆっくりしたり、少しささやかな楽しみに癒されながら毎日やることをやる、それしかできない。

刺激を嫌がるように、変化をすこし拒むようになってきたのはなぜだろう。
すごく嫌な感じがする。何かに引っかかって抜けない感じ。
もう5か月だ、とかいう焦りもある一方で、「もう今はいいだろう」とか変化を求めない最近の私。

てかそもそも、「変化」というか「+α」をこんなにも求めてしまうのはなぜなのだろう。追いかけてしまうのはなぜなのだろう。

そもそも、1年、とか終わりを意識しすぎて動いているのもなんだか不自然だ。大学4年間、とか単なる表面的な数字にしか過ぎない気がして、そこで終わるものがあったとしても区切りが発生したように見えているとしても、ずっと続いていく時間の上に、連なっていく「生活」
「人生」とか言うのは仰々しい気がするから、「生活」とか言っておく。
わざわざ自分で誇張して、何か大きな変化があるような設定を促しているだけなのかもしれない。
だから焦るも何も必要なくて、今だけ見ていたくなる。

自分の中にそれを留めて置ければいいのだけど、一番身近な人にそれを話して、話してもどうしようもないことなのだけどただ「発散」というか、「開放」というか「詰まり」を何か解消したいのだと思う。
ただ、それがものすごく一方的な行為だということもわかっている。わかっているのだけど言葉が止まらないのだ。

自分がもう少し早く寝て、早く起きていれば、
ヘルパーさんの募集と配置をもう少しうまくできていれば、
そんなタラレバばかりを述べるだけ。
それが何かに変化した様子は一切見受けられない。

全部自分に起因するものだとはわかっているのだけど、なんだかそれだけではないような気もする。自分のせい、とかではなく、誰のせいという訳でもなく。もうそうなるしか他ない、みたいなこともありうるんじゃないだろうか。

「行き詰った中で、中々身動きができないような状況の中で自分なりに時間を見つけてうまくやりくりする。」
「手を抜くところは抜いて、他に時間をかけれるように調節する。」
そういうことがうまくできたら良いのだけど、今の自分にはそんな気力がない。ただ目の前にあるものを淡々とこなしていくことにしかエネルギーが向かないのだ。

もう身を任せるしかない。

「無理しないでね」

「無理しないでね」
最近、すごく引っかかる言葉のひとつ。
自分も使うし、言われるし。

けどすごく無力な言葉のような気がしてならない。
無理しないでね、と言われても状況は全く変わらない。
言われた側のやることは一切変わらない。
「うん、ありがとう」と言ってまた動く。

「無理しないでね」とか
「頑張ってね」とか
一見親切な言葉のように感じるけれど実はテキトーな言葉。

「何かやっている人を見て、自分には何もできなくてもどかしいからせめてもの償い」の意。
言う側がどこにも消化できないやるせない気持ちを「無理しないでね」に託す。

受け取る側はそのように気遣ってくれてありがとう、という気持ちではあると思うが
「気遣ってくれて『ありがとう』」も空虚なものである。
そこでの「気遣い」がそもそも空虚なものであるから。

まあこんなことを言われても、代わりにどんな言葉をかけたら良いかわからないし、どうすることが適切なのかもわからない。
声をかけなかったらかけなかったで、不親切みたいになるし。
声をかけたとしても結局何もできないし。

どんな言葉が適切なんだ?と考えはするけど、
結局言葉の持つ効力なんて薄っぺらいものなのかもしれない。

とっても無責任なもの。脆いもの。でも、
結局、私は言葉を使う以外の表現方法をなかなか見つけられない。

言葉は便利。一番わかりやすいものだと思う。
相手から見ても
赤の他人から見ても。
自分を見る「自分」という「第三者」から見ても。
何かを認識するときに最もわかりやすく、伝わりやすいもの。

逃れることもできないだろうし、逃れようとも別にしてない。
特段他の表現方法を求めてもいない。
自分や相手を傷つける、そんな前提の中で生きているのかもしれない。
言葉によって生まれた感情をまた言葉で治療したり、蓋をしたり。

「わたしは最悪。」というノルウェーの映画を昨日観た。
その中で印象に残っているシーンがある。
主人公が恋人と別れ話になったとき、相手との感覚の違いを述べてるシーン。
恋人は「言葉」で説明しようとする人、というか、言葉で受け取ったり、言葉で表現するような人。
けれど主人公は「感情」で、己の感覚で動き、表現するような人。

「言葉」を持っている方が強いと思っているんでしょ、的なセリフだったと思う。その言い合いのシーンが、主人公が恋人に言い迫るシーンが印象に残った。「言葉」というものの適当さ、乱雑さ、脆さ、いろんなことが頭をよぎった。

「一緒にいたい」と思うこと、「好きだ」ということ、「そばにいたい」ということ。
その言葉のまん中はどこなのか、その言葉はどの感情から現れるものなのか。それっていったいどうすることなのか。どう動くことなのか。
考えて考えて説明しようと思えば思うほど、言葉しか浮かんでこなくて、言葉で説明できないものを、正体のわからないものをつかめないもどかしさ、歯がゆさに襲われる。
どうしようもできなくて体がかゆくなる。思考が止まる。
思考が止まってしまうことがなんとも悔しい。

言葉とは、お互いの中にある異なる概念に対して、普遍性をもつ「言葉」によって共通認識を持たせ、コミュニケーションを成り立たせるもの。
解像度を上げて、言葉を用いようとすればするほど、言葉でしか救えないもどかしさがやはりある。
わかりたくても分かり合えないもの、言葉ではどうしようもできないものに足を取られて、埋もれてしまう。そんな恐怖が幾分かある。

私はあなたと会話ができるだろうか。

日々、ゲストハウスで働いていると、本当にいろんな人に出会う。
けれど、その「出会い」はものすごく一瞬で、風が吹いていくように、当たり前に過ぎ去っていく。
顔は忘れ、その人と何を話したかも忘れていく。

けど、何人ものゲストさんの中でも特に仲良くなって、今でも連絡が続いていたり、直接宿泊していなくても、姉妹店で出会ったり、スタッフのつながりから仲良くなったりする人がいる。

この先、途切れる糸なのかもしれないけれど、脆く細い糸なのかもしれないけれど、ここで日々出会う人と話をし、見送り、見えない糸を紡いでいく。数はそんなに多くないけれど、この場所でいろんな人と出会い、その人の人生を想像し、心の内で少しでも触れ合う。
どこで出会うかもわからない、もしかしたら今後一切会わないかもしれない人たち。その人たちの人生の線上に、意思を持ってすこしでもこの場所が現れること。

そんな体験というか、経験というか、そういう記憶はとても幸せな感覚をもたらしてくれる。疲れるときもあるけど、

一つの場所に、一つの場所に、
絶え間なく流れ、変化してゆく時間と、どこからかやってきては過ぎ去る人の風のような動き、と、滞留して腰を据えた商店街の空気や人々。そんな二つの物質、というか別の温度を、異なるスピードをもった空気が同時に存在している状況。

観光地でもないこの場所に、そういう状況が発生しているのはなんだかやはり面白くて離れがたくなる。
毎日を淡々と過ごし、変化を求めていない、淀みのような今の状況を正当化するならば、そのような少し面白い状況を淡々と過ごす中で観察できる、と私は言うだろう。

星野道夫と『旅をする木』

『旅をする木』という星野道夫の本を読んだ。
ずっと自分で持っていたい本だと思った。
抱いていたい言葉たちだと思った。

星野道夫、という人物が見た風景を想像し、
今自分が生きている同じ空の下、丸い同じ地球上に、
一生出会うことないかもしれない風景、いまだ人類がたどり着かない風景と
同じように息をしているものたちが存在していること。

不思議な感覚。手の届かないところにあるけれど、体温を感じる風景。
星野道夫という人物の愛した土地や人。

その、どこか全く違う時間の流れや空気、生き物の生活を想像してみるだけでなんだか救われるような気がしている。

8月に入った、私の近況。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?