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#タグのない文章

アルクロです。

『遅いインターネット』という宇野常寛さんが書かれた本を読んで、何となく自分とSNSとの中にあったわだかまりのようなものがそぎ落とされたよううな気がするので、書評のような読書感想文のような自己宣言文のようなものを。

1回しか読んでないので足りない部分もあると思いますが、多分この本の言ってる、特にSNSのことに関してざっくり書くと

・人はSNSを使い意見を簡単に発信できるようになったが、それ故愚かさを露呈することとなった。
・自分語りといいねやタグを通して自立を目指したが、その実、ほとんどの人が同じ方法で自立を目指しているのでそのプラットフォームの住人として埋もれている。
・プラットフォームの住人を突破するために(世界を素手で触るために)、プラットフォームの切り口と距離感を常に調節することが求められている。

曲解があったら申し訳ないがご自愛いただきたい。しかし、読んでいて考える力とベースが足りないのかこれらは腑に落ちるばかりだった。そして少なくともそのSNSのことに関して付き合い方を言語化できそうな感じがしたので書きたい。

・人の掃き溜め
 SNSの中でも、Twitterは7~8年前からやっているが前述のような現象が溢れに溢れすぎて辟易に辟易を重ねている状態を身をもって実感し続けている。(自分がその1人であることは認識している) 例えば、Twitterに流れるニュースを覗けば意図的、非意図的に関わらず狙った見出しや、悪意ある切り取りから始まり、記事を一通り読んだところでリプ欄を覗けば悪意ある見出しに糾弾している人がいたり、登場人物の人格否定をしていたり、事実を提示している人がいたり、喧嘩を吹っ掛ける人がいたり、大喜利を始める人がいたり、これらをまとめて俯瞰しあざ笑う人がいたり、そこにはミニ阿鼻叫喚地獄が生成されていてあまりにも見るに堪えない。(自分の意見を言わずただ事実や一次情報の提示をしている人はまだマシかもしれないが) また、私は写真をやっているのでそれに関係する人や、素晴らしい作品を制作されている方をフォローしているし、情報を得るために企業や所謂インフルエンサーもフォローしている。(『遅いインターネット』を知ったのもツイッターからだった)もちろん、自分でフォローしている人なので気に入らなければ管理という名のもとにフォローを外すこともできるが、決してその人発の情報や意見が悪いのではなく、Twitterというプラットフォームの性質上、その人が拡散した情報が否応なしに流れてくることが問題であることが多く、それによってフォローしている方自体が私の中で希薄化し、どっかで見たことあるような構図や色味、キャプションで覆いつくされた写真に溢れたり、必要としていない情報を見なければならなくなり、自分のTLであるにも関わらず辟易してしまう事態に陥っている。(機能としてRTを見えなくすることもできるが、有益な情報も流れてくるため頭を抱えている)

・その中で私は
 私自身は一貫して、見るに堪えない彼らに対して静観の態度をとってきた。それはこれまで言語化ができないわだかまりであったが、愚かさを露呈する行為であるということを知っていたからに他ならないように思われる。そもそも、リアルでもネットでも人にあまり話しかけない生活を送っていることも影響しているのか(それも愚かさを露呈しないためか)自分の意見の発信は自分のTLか、見えている誰かに向けてだけに留めている。しかし、その一方で私も発信側に回る時、注意深く発言内容を考えながらも図らずとも自分の愚かさを露呈させ、相手を辟易とさせている(に違いない)し、多くの人に私という存在を知ってほしい承認欲求もあるので、プラットフォームのお作法に乗っ取り、どっかで見たような構図と色味の写真に可もなく不可もないエモいキャプションをつけ、ハッシュタグを用いて発信するプラットフォームの住人として瞬間的に生きている私もいる。

 因みに、これはnoteにおいてもしかりで、Twitterと違いリプ欄(コメント欄)はボタンを閲覧者が押さなければ共有されないし、RTもないので(?)情報をある程度自分から取りに行く必要があり、TLが埋もれることもないのでそういう意味ではnoteはTwitterよりも能動的な側面が強い違いはあるが、発信側にまわって私という存在を知ってほしい時はnoteのお作法にのっとり、皆が使っているタグを使い、人目を惹くキャプションを辟易する自分と葛藤を繰り返し、自分と折り合いをつけながら発信している。

つまりは自覚している、していないに関わらず、プラットフォームの住人でありながら、住人を突破する方法がないので矛盾を繰り返しながら住人であることを拒み続けてきたわけである。

・自分が陳腐化していく
 キャプションを辟易しながらつけて葛藤しながら発信していて、タグやRTを煙たい存在かのように書いているが、それらの機能は本来問題ではないはずのように思う。キャプションはどのようなことを示しているのか提示するものだし、RTもタグも使わなければインターネットに広がりを持たせられない。ではなぜ嫌悪しているように書いているかといえば、それらの使われ方がプラットフォームの住人化を促しているからだと思う。例えば、多くの人が共感するだろうエモいキャプションをつける。例えば話題の動画を脳死でRTする。例えば有名な観光地で撮った有名な構図の写真を大量のタグと共に投稿する。こういった使い方は今のスタンダートだし誰もがやっていて(小泉構文)、やればやるほど自分らしさが失われ陳腐化し、ついにはbotでもできるレベルのものになってしまう。自由に使わせろというのはもっともだが、その自由は他人の自由を奪ってないか考えてほしい。

・住人を突破するために
 話は少し逸れるが『遅いインターネット』では第1章で2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド・トランプが当選したことを例に挙げて、既存の民主主義では自由と平等の味方になれないといっている。あまりに私に教養がないためにその意見を1回読んで後、どう噛み砕いたらよいかわからないのが正直なところだが、自由と平等の味方になれない既存の民主主義をじゃあどうしたらよいか、という問いにこの本では「民主主義を半分諦めることで、守る」と答えている。この答えは3つの提案によって説明されていて、これから私が述べることと直接には関係がないが(多分)、解答の「民主主義を半分諦めることで、守る」という言葉が前述したプラットフォームの住人を突破し、切り口と距離感を常に調節するため自分なりの回答になるのではないかと思う。

そして私は、プラットフォームの住人を突破し、切り口と距離感を常に調節するために「Twitterを半分諦めることで、守る」ということをしたい。

・「Twitterを半分諦めることで、守る」
 正直なところ、読み終わった昨日の今日で熱が冷めないうちに書いているので私自身わかってないことも多い。ネットリテラシーも足りない気がするので、この提案はただバズらないのにバズを狙ったもので、パクリでズラしただけなんじゃないかという葛藤もあるし、辟易する根源を生成してしまったのではないかとさえわからない故に不安している(動詞)。しかしながら、これを用いることで私にとっては腑に落ちた活動ができそうではある。

 私はエンジニアでもないし、そうであっても今は所謂遅いインターネットを作って、住民を突破したい人を引き連れて活動することよりも、自分事の活動をやって発信していたい。しかしただ発信すればプラットフォームの住人として埋もれてしまう。求心力もない。でも自分事を発信したい。そんなわがままを叶えられるのはすでにプラットフォームとして存在するTwitterやnoteで(最近ではfeedback saunaも)、人を繋ぐための発信はある程度体系的で自分色を希薄化してあるのが王道で(尖ったものの瞬間風速は凄いけれど)、それがタグやRT、キャプションのようなものだと思う。しかし、それを割り切って使えば、本当に見てほしいものよりも、タグや写真ならどっかで見たことのあるものが、多くの人に見られ苦しまなけばならない。

なので私は、タグの無い文章を書くことにした。

え、じゃあやっぱりタグ付けた投稿がタグなしより見られたらしんどくね?というのはもっともだと思う。しかしこれは考え方と実際に行う行動の違いで説明できる気がする。

 まず考え方は「Twitterを半分諦めることで、守る」の文字通り半分諦めて、それでもTwitter(note)を使う(守る)ことを前提に置く。今までは見てもらうためにはタグを使って、キャプションつけてと拒みながらもプラットフォームの住民として仕方ないと思っていたところを、住人化しないために、Twitterを半分諦めて辟易しない程よい距離感であるために、タグをつけない考え方がtwitterをしながら住民を突破して程よい距離感を保つための考え方だと思う。なんなら、そこに楽しみを見出せたらなおよい。また、一瞬の気持ちを代弁してくれるRTを安易に使わない考え方やリプは会話するためのものという考え方があるとよいかもしれない。

 実際行う行動としては、今まで仕方なく見てもらうタグを使って投稿に至っていたものを、半分諦めるのでタグを最低限に使用する(具体的には固有名詞のみ)orタグを自分で生み出して使うことを駆使しながら、各々の発信物として成り立たせていく。RTを安易に使わないためには引用RTで自分の意見を自分のTL内に収めて距離感を保つことも重要だと思う。そういった切り口でTwitterと関わるのが自分の中の今のところ答えかもしれない。実際には、現在タグ付けて投稿しているのもあるので徐々に移行することにはなるが。

これらを実践するだけでもとりあえずTwitter(note)をやりながら辟易しないマインドで付き合っていけそう。極端な話、個人的はタグなんていらないと思う。そしてそれが広がった時、住民化した塊のようなものが適切な距離感をもってほどけていき、本当の意味で広いTwitterになればもっと自由に発信できる。

そう信じてまとまりのない文章になってしまったけれど、
#タグのない文章  で終わりたいと思う。



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