見出し画像

この感情を ここに 記しておこう

   2002-2007
北青山3丁目 交差点から 二件目の3階でも
小さな ミルタックを 営業していた。

難しい場所 でもあった。

その窓の 向かいは ベルコモンズが見え
隣のビルは なんだか よく入れ替わり
その当時は ワーナーブラザーズさん でした。

福岡出身で ワーナーさんやタワレコの (音楽ライター) 
打ち合わせ帰りに立ち寄って くれた人がいた。
今も きになる人だ。
リリーフランキーさんの本や いろいろ 教えてくださった。

大事な お友達も 紹介くださって
(音楽ではなく 旅行関係だったかな ??)
お友達は 6.7年過ぎた頃 ご実家に帰られて
その後 ご縁の方と・・・ということだった。
帰られる前の ある日
「フラワーカンパニー」と 私に呟くように
ご贔屓を 教えてくださった。


( 他にもご主人が 音楽ライターさんの方がいて
当時 タワレコの小冊子 分解するとその二人が
同じ 一枚に書かれていたり 不思議だった。 )

そういう 空気は 文字では 伝わりにくいけれど 
その後 ライターをしながら
九州のアマバンドの 審査とか・・いろいろ なさっていたと思う。
そして
他の顧客から よく うかがっていた
くるり さんの スタッフに何年かは なったり
才能が本物なので 生かしたいと 
くるりさんの 海外や京都の活動の話も 
うかがったり していた。

私が 武蔵野エリアに 帰ると
その方も 中央線の人となり 
何年かは 毎月 お会いできていた
公共の音楽の関係で 仕事をすることになった。

安定していても その方には 合わないらしかった。
そして 納得いく生き方に シフトしていく決心のようでした。

その後が 気に かかって 2.3年は
    祈るような気持ちでいた。

ちょっと フラワーカンパニー という
文字と 生き残る という 文字を 見て
その人のこと 思い出して・・・この感情を
相応しいかわからないけれど noteに しるしておこう・・・。

活動として どうしているかな・・・。
ライターお名前検索で 2017の フェスのリポート。
その時期は 音楽ライターはつづけているのを知った。

自分もかなり 辛い時期 何度も ありました 
今も 考えるとき・・。
    人の運命とは・・。

LION (インドの実話に驚愕 そして あの 北青山の時代の頃かぁ
    1986-2008  インターネットの普及と 迷子の子供の人生)

奇跡がくれた数式  (1910-1920 第一次世界大戦の頃の英国とインド)


写真  柏木江理子さんの 懐かしい作品

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?