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シン勉強論 学校で勉強する理由、「負債の解消」説

見る目薬です。普段大学職員をやっていますが教員免許も持っています。学校で教鞭を取れる資格がある以上、自分なりに考えた結果持っている教育哲学がいくつかあって、その一つ、「学校の勉強は負債の解消である」、という考えを紹介してみます。

シン勉強論なんてナウでヤングでエラいタイトルですが、多分そんなに新しくないです。ただ近頃の勉強に対するイメージが暴走している気がするので、そんなキレーなもんじゃないよと言いたいだけだったりします。それではどうぞ。


「どうして学校で勉強するの?」
 「勉強がいつか役に立つからだよ」

 それって、本当?

小学校から中学校、高校に至るまで、勉強する意味を見出せない子どもは多い。
三角関数を学んでもなんの役にも立たない。古文を知っても何の肥やしにもならない。どうして学校で役に立たないことまで勉強しなきゃいけないの?3者の視点からざっくり読み解く。

先生曰く、学校で勉強する意味

このような問いに対して、少し困った顔をしてみせ、いかにも神妙な顔つきで、慎重に質問に答える先生。今日もどこかにいるはずだ。勉強の大切さが一番身に沁みている先生だからこそ即答しづらい質問である。

回答内容はポジティブでなければならない。なぜならば教師は紆余曲折を経た勉強の末にたどり着くことができる職業であり、本音を言えば「つべこべ言わずに勉強せい それが君の血となり肉となる 絶対に後悔はしないから」なのだ。

勉強に負の印象を与えるわけにはいかない。
多感な子どもを相手にすれば、なおさら気をつけなければいけない。

社会人曰く、学校で勉強する意味

一方で社会人というか、世間一般の声も興味深い。

「俺は学校で勉強していなかったけど成功したから勉強しなくてもいいよ」
「学校じゃなくても勉強なんてできるから、学校いかなくてもいいよ」
「結局、社会に出て成功することが全てだから、将来役に立つ勉強だけしなよ」

どうも学校が権威的で古臭い施設であると捉えられている。
勉強することが世界の全てではない。
そして、勉強しないという選択肢も自然と出てくる。
よって、各人の多様な考えに基づいて勉強する・しないを決めて良い。

老婆心だろうか。なんとなく語り手が歩んできた道、考えが見え隠れする。
やれ勉強だの学校だの、いいか君たち、結局、社会だぞ、と。

私が考える、誰も言わない、学校で勉強する理由

私は先生ではない。社会人としては少し異質な立場にいる。
だからこそ、ある程度は自由に考えて物を言っても怒られないと思う。

小学校から高校までの勉強は資産の形成ではなく負債の解消である。

勉強は成果を積み上げる過程ではない。
自分に染み付いたバカを切り崩す過程である。

ここで言う資産と負債についてのイメージを記そう。

なぜ負債という言葉を使ったのか。私は、本来人間はバカな生き物であり、バカを補強するために学問等の「知性増強装置」が発展してきた、という立場に立つ。この考えは、最近出版された戸田山和久先生の『教養の書』で詳しく展開されている。人間のバカさは、フランシス・ベーコンが「種族のイドラ」として考えた、人間の認知バイアスに代表される人間の本質のことである。

負債は持っていると損をするものだ。手放すに越したことはないものだ。しかし人間は負債を抱えて生まれる。

逆に資産とは持っていて嬉しいものだ。持っているだけで収入を得られるもの、持ち主に幸せを与えるものだ。自分にとって別の物と変えられない価値があると言い換えてもいい。

学校で負債を切り崩せなかった人間は、大人になって資産を形成しようにも、過去に放置され積もりに積もった負債に苦しめられる。

学校でろくに勉強しなかった私は、大人になって勉強しようにも勉強法が分からず、いつまでも非効率だ。高校生の時に「知識を蓄えずとも理屈さえ知っていれば大丈夫だ」と謎の自信を持ったがゆえに、物を覚える力が身につかず本当に苦労している。本当に勉強をしてこなかったせいで、いま大人になった自分の知的好奇心の行き場が無くなっていく。集中力は持たないし理解力は乏しい、文章も読みにくい。理解している内容だってわずかだ。他人にも流されやすい。私は、小学校中学校高校で解消できなかった負債を引きずっているのだ。

もちろん、この事実が大人になったいま勉強しない理由にはならない。人生には勉強による脳内の破壊と創造がつきまとう。ただ、心身に染みついた知的武装の質は学校できちんと勉強したかどうかに大きく左右されるのだ。人間が生まれ持っている負債を解消してきた人間は、大人になって自由に考え行動できる余地と能力を得る。資産を形成できたからではない。彼らは負債と向き合って負債に、人間の本性に打ち勝った「勝ち組」なのである。

そんなこと言われても...と思ったあなたへ

本稿で言いたいことは大体言いました。
ただ、このまま終わってもなんか釈然としないでしょう。
「何が言いたいねん」と。「こちとら毎日頑張ってんねんぞ」と。

私は人を傷つけるために文章を書かない。ましてや負債を解消できなかった事実を悔いてほしいのではありません。

ただ昨今、(特に大人になってからの)勉強に対して抱く印象があまりにも美化されていると思うんです。勉強の美しさ、健気な綺麗さはもちろん多分にあります。「人間の脆さを補う勉強」、その本質を伸ばしすぎて、「勉強すれば人生は必ず成功する」という勘違いを引き起こしている。それが私の持つ危機意識です。

勉強は人生の目的でも、結果でもありません。
避けては通れない過程です。
マイナスをゼロに、ゼロをプラスにする過程。

勉強はもっと、汗の匂いがする、小汚い過程で良いと思います。
罵倒され、歯を食いしばって、這いつくばって、悩んで、泣いて、
ぐしゃぐしゃになった顔で、「それでも」と進撃を続ける。
これが私たちにできる、精一杯の自己表現ではないでしょうか。

どうして学校で勉強するのか。
それは、避けてはいけないから。
避けないことが、本当に豊かな人間を形成するから。
そう信じて、今日も学校教育に敬意を払いたい。

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