もしこれが被災地だったなら/確実に存在する絶望に

2日の昼過ぎ、娘が熱発した。
6歳の娘は普段から甘えたがりの寂しがりで、不安が強く、基本的に私にへばりついている。
体調が悪ければ殊更、浅い眠りの中にあっても離れれば直ぐに目を覚まして泣く。

1日には災害の報道があった。
私の母方郷里は東日本大震災で津波に消えた集落だった。そんな実家の家族と、家族のパートナーである石川県出身のひととともに災害報道を見ることになった。
元旦だったから。頻繁に集まるわけではないが、お正月の小さな集まりをしていた。

親類に亡くなった方もいる。PTSDに悩まされ続ける子もいる。郷里は復興しないことになり、何度か訪れたが、瓦礫がざっくりと片付くと、ソーラーパネルをぎっしり並べて、その先にポツリと慰霊碑が立っていた。人気はなく、雉が鳴いていた。
豊かな森も港も田園風景も懐かしい景色はなにひとつなく、今後も人が住むようにはしないそうだ。
それでもおもむろに漁船が道に突き刺さっていた被災後の景色と比べるなら、本当に手を尽くして下さったのだと思う。
回収しきれない海の瓦礫はそのままで、集落の少なくないひとたちはそこで眠っている。

それでも私は被災の当事者ではない。
10年間ずっと少しずつ喪失し続けている。
鮮やかな脳裏の景色と、更新される根こそぎ奪われた景色のギャップに。
でもそれだけだ。私は震えてはいても凍えていなかったのだから。
絶望のその場を体験してはいない。

泣いたり噴水のように嘔吐する娘の看病をしながら、シーツや布団を洗い着替えさせ唇に氷を含ませ抱きしめて寝かせながら、全く珍しくもないお腹の風邪をもらっただけの娘の看病をしながら、もしこれが被災地だったならとおもう。

全く珍しくもない、この冬とにかく流行ったお腹の風邪。北陸でもたくさんの子供が罹っているはずだ。
凍える避難所で、停電した家の中で、看病しているお父さんお母さんのことをおもう。
ただでさえ不調から不安を呼び寄せる子供のことをおもう。
あたたかく清潔にしながら安心させることの、ただそれだけの基本的なお世話すらままならないことをおもう。
少ない毛布に嘔吐した子もいるかもしれない。お着替えがない子も。脱水の疑いからおろおろとしても病院にいけないかもしれない。暗くて寒いのはとても心細い。大人でも辛いのに、子供には、子供を守らなければならない親には、どれだけの困難だろう。
知的や自閉の障害のある子たちはパニックになっていないだろうか。医療的ケアの子達は必要な電源が確保できているのだろうか。薬はあるのだろうか。体温を保つことが難しい子達はどうにか暖が取れているだろうか。生きて、くれるだろうか

子育てはいつでも薄皮一枚の向こうに死が潜んでいる
生きていてくれることは奇跡だ
私は、とにかく命を守るために命を使うようにしてきたけれど
障害のある子たちは、もっと、もっと身近なのだと知らしめられることもあった

どうか、どうか。
どれだけその場所が寒くても、抱きしめてくれるひとの暖かさがありますように。
どうか。
酷いことが、これ以上、起きませんように
一刻も早く
温かく安全な場所に落ち着けますように。
どうか。
どうか。

なにもできなくてごめんなさい
支援金を送るのもこんなことを書くのも
きっとその場のひとたちの力にはなれなくて
自分の慰めなのかもしれないとおもう。
自己満足の欺瞞なのかもしれない

それでも
祈らずにはいられなくて

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