見出し画像

R-1グランプリ2022の吉住について - 狂っているのは誰なのか -

R-1グランプリ2022の吉住の一人コントが圧巻だった。
ものすごいものを見てしまった、と思った。

コントの主人公は「芸能人の不倫に気が触れるほどブチ切れる人」。
普段はおっとりした口調でニコニコしている会社員の女性が、芸能人の不倫のニュースが流れると豹変し、髪を振り乱してブチ切れる。

「なんでそんなことすんのー!」
「お前が愛妻家だって言ったんだろー!だからこっちだって信じたのに!」
「あー裏切られた!」
「謝罪謝罪!謝罪してほしい!」

この辺りのセリフは不倫のニュースのコメント欄やSNSに溢れかえっているフレーズのオンパレードで、そういう世相の風刺ネタなんだろう、という風に見ていた。

ところが、この後の展開がすごい。
一緒にランチを食べている同僚の「不倫は当事者間の問題だから(私は怒らない)」というセリフに対して、
「私はテレビけっこう見るから当事者なんだよね」と言うのだ。
さらに続けて、「ファンとかではない、お金は一銭も落としたことない」「だけどテレビ見て知ってたし、結婚するって聞いたときもいいねとかRTとかしたのになんでー!」と言い放つ。

この「お金は一銭も落としていないがテレビで見ていたしSNSもチェックしていて〈いいね〉や〈RT〉をしていたから私は当事者だ、だから私はその人の不倫に怒るのは当たり前だ」と言う人に対して、私はもちろん最初は「狂っている」と思った。そして「芸能人の不倫にブチ切れる人」というのはそういう狂った「当事者意識」を持ってしまっているのだ、というこれもまた痛烈な風刺なんだろうと、最初は思った。

審査員のバカリズムはこのコントに対するコメントで「メッセージ性がありそうに見えて、実は軽くバカにしているだけなんだろうな」というようなことを言っていた。このコントのタイトルが「正義感暴れ」であることからも、吉住自身もまあそういう人をバカにしたり皮肉っているのだろうと思う。

だが、私はこのコントを見ているうちに、吉住の演技というか憑依というかそういうものが凄すぎて、だんだんとこの女性をバカにして終わるのはなんか違うのではないか、という気分になってきた。
これを説明するのはけっこう難しいのだが、なんとかその理由を言語化してみようと思う。

まず、このコントの始まりを思い出してみると、「課長が間違えてシュレッダーをかけてしまったのに、その書類がなくなったことを自分のせいにされてしまった」ということをニコニコしながら話す彼女の姿がある。そして、そのことを「課長っておっちょこちょいなんだから」と笑って許す彼女。ここから垣間見えるのは、彼女は日々上司の理不尽な言動に振り回されているしがない会社員だということだ。そして会社ではそんな理不尽に笑いながら対処している彼女の中には、自分でも気づかないくらい膨大なストレスが溜まっていることだろう。さらに、もし彼女がイオンモールくらいしか娯楽施設のない地方に住んでいて、給料も安い会社員だったら、残業が終わってヘトヘトになって帰宅した後の楽しみは、テレビとSNSくらいしかないのかもしれない。
そう考えると、彼女はかなりの弱者だ。不倫した芸能人と対比すると残酷なほど弱者だ。
そんな彼女が「芸能人の不倫にブチ切れる」ことは、果たしてそんなに「悪」なのだろうか、という気持ちにだんだんなってくる。「芸能人の不倫にブチ切れる」くらいのことで彼女が理不尽だらけの日々のストレスを発散し、道を踏み外さずに生きられるなら、それでいいじゃないか、という気さえしてくる。

さらに彼女は、「当事者」とは何か、ということを私たちに考えさせる。
もちろん上記で述べたように、私も最初は彼女の「当事者意識」は狂っている、と嘲笑していた。
しかし、「お金は一銭も落としていないがテレビで見ていたしSNSもチェックしていて〈いいね〉や〈RT〉をしていた人」は「当事者」ではない、と決定的に断言することは私たちにできるのだろうか。
「お金を落としていないから当事者ではない」とするならば、「お金を落としているファン」は当事者なのだろうか。当事者か否かはお金を落としているかどうかで判断するのだろうか。そもそも「当事者」かどうかを決定するのは一体誰なのだろうか。芸能人からしたら不倫の当事者は「家族」と「仕事関係者」だけである方が都合がいいだろう。彼女の「当事者意識」は狂っているものである、と世間が思っていてくれていた方が都合がいいのだ。だが、彼女は、周りがどんなに狂っていると評価しようとも「自分は当事者」だと自分で決めている。「当事者」であることを誰が決めるのかということが明確でない以上、私たちは本当に「彼女の決定が間違っている」と言いきれるのだろうか。
芸能人はテレビに出ている以上、彼女のようなお金を落とさないテレビを見ているだけの人に対しても何らかのアピールをしている。そしてときには賞賛のコメントを受け取る。SNSでいいねを貰う。フォロワーやいいねが増えれば、新たな仕事につながることもある。テレビに出て、テレビを見てもらうことによって、何かを得ている。それに対して、不倫をしたとき、彼女のような圧倒的弱者がブチ切れることくらい、大した問題だろうか。よく考えてみれば、芸能人にとっても、私たち世間にとっても、彼女がブチ切れることによる影響や実害なんてほぼないのだ。審査員の陣内が「こういう子がコメントしてたんだなって思ったらちょっと安心した」というようなことを言っていたが、彼女は不倫した芸能人にとって脅威になり得るような存在では全然ないのだ。

そして、ここで考えてしまうのは、私たちは彼女のような人をなんかものすごい巨大な悪に仕立てあげてはいないだろうか、ということだ。自分の生活にほぼ何も関係のない彼女を、「狂っている」と嘲笑い、「悪」だと決定するのは、正しいことなのだろうか。
自分は「不倫は当事者間の問題」だと思っていて決して芸能人の不倫に怒ったりしない「まともな」人間で、だから彼女のような狂った「当事者意識」を持った人を嘲笑ってもいい、彼女のような人を下に見てもいい、と思っているのなら、そんな自分のことを「まとも」だと思い込んでいる人間の方こそ、狂ってはいないだろうか。自分のことを「まとも」だと思っている人間は、自分の狂っている部分には気づいていないだろう。自分が狂っているだなんて微塵も気づいていない人間が、誰かを「狂っている」と嘲笑う。これはなんかものすごく怖い。彼女よりずっと怖い。

本当に狂っているのは、本当に「正義感暴れ」しているのは、一体誰なのか。

R-1グランプリ2022の吉住の一人コントは、本当に凄かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?