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「コーヒーと短編」が生まれるまで

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 アアルトコーヒーの焙煎人・庄野雄治さんは、近代文学をたくさん読んでいて、私は庄野さんから様々なすこぶる面白い小説や随筆、童話や評論を教えてもらっていた。あるとき、文学作品のアンソロジーの話になり、無理矢理テーマに落とし込んだ編集のものが多く、自分たちが読みたい本が少ないという意見で一致した。
 そして、古い小説の中に光り輝く作品がたくさんあるが、それがちゃんと読まれていないという点でも見解が合致した。古いと言っても内容は普遍的で、今の時代にこそ読まれるべき小説がたくさんある。新しいも古いもなく、いいものはいつの時代もいいのだということを立証するようなアンソロジーを作れないだろうか。
 コーヒーロースターである庄野さんが編纂するとなると、コーヒーが登場する作品を選んで欲しいというお題が出されるだろう。そうではなくて、単純にコーヒーを飲みながら読んで欲しい、すこぶる面白い作品だけを集めたものを作ってみようと考えて編纂したのが、本シリーズ第1作にあたる『コーヒーと小説』だった。あえて、コーヒーが登場する作品は載せないという逆のしばりを作ったところ、普段からコーヒーよりお酒が好きと明言している庄野さんらしい、お酒がたくさん登場する小説集となった。
 大正から昭和初期に書かれた近代小説集だけれど、古さは一切なく、むしろ現代にこそ読まれるべき作品を厳選してもらった。小説は読まなければならないものではない。あってもなくてもいいけれど、あれば生活が豊かになる。そこがコーヒーとよく似ていると思う。だから、小説とコーヒーはよくあうのだろう。コーヒー屋のくせにではなく、コーヒー屋だから作れた、ちょうどいい作品を載せることができたと思う。

 そして、どんな装釘にしようと相談したところ、近年カバーにイラストレーションを使った小説集が多いので、あえて写真で、しかも人物写真を使ったデザインにしようというアイデアが庄野さんから出た。選んだ作品には魅力的な女性がたくさん登場する。全体の主人公は女性ともいえるので、女性に登場いただこうと考えた。
 続けて庄野さんは「モデルとか俳優ではなく、音楽をやっている人に出てもらうのはどうだろう」と言った。庄野さんも私も音楽が好きで、選んだ作品たちも、音楽が聞こえてきそうなリズムのあるものばかりだった。私は、ずっとその楽曲から文学の薫りを感じていた、シンガーソングライターの安藤裕子さんの名前を真っ先に挙げた。庄野さんもそれに賛同してくれて、駄目もとで安藤裕子さんに出演交渉をすることになった。
 安藤裕子さんのHPから企画の趣旨と掲載予定の小説タイトルなどを送ったところ、掲載する予定の作家の作品が好きだということで、出演の快諾をいただくことができた。ちなみに『コーヒーと小説』の最初に掲載した太宰治の「グッド・バイ」と同タイトルの楽曲、アルバムが安藤裕子さんの作品にもある。
 写真は以前からお願いしていたいと思っていたカメラマン・大沼ショージさんに撮影いただいた。光と影の表現が素晴らしく、湿度や温度や匂いを感じる作品を撮る写真家だ。近代小説が好きな大沼さんは企画意図をすぐに理解してくれて、予想を遥かに超える美しい写真を撮影してくれた。
 さらに、各作品の扉には木下綾乃さんに挿絵を描いてもらい、近代小説に馴染みのない人でもとっつきやすい誌面に仕上がった。

 『コーヒーと小説』は好評いただき(間もなく文庫サイズ新装版も発売)、翌年、今度は随筆を集めた同シリーズ『コーヒーと随筆』を制作した。同じく、近代の作品ながら今こそ読むべき随筆を厳選し、続けて安藤裕子さんにモデルを務めていただいた。
 この2作は、テーマを取っ払ったとはいえ、小説と随筆という大きな括りはあったので、童話や詩など、そこから外してしまった作品も多数あった。それに、掲載したい作品はまだまだ山のようにあり、出版してからも庄野さんと「やっぱりあの作品も入れたかったね」という話をしていた。それならば、次はジャンルさえもなくして、ただコーヒーを飲みながら読んで欲しい、すこぶる面白い短編という大きな枠で考えて作ろうということになった。
 それに、前2作は、これは有名だからやめようという判断で掲載を見送った作品もあった。しかし、その有名な作品も学生時代に読んだきりで、どんな内容だったか薄らとしか覚えていないことに気がついた。改めて読み直して、ずっと以前に読んだ時には見逃していた、たくさんの発見があった。これはきっと多くの人が知っているからやめておこうとか、そういうことは一切なくし、庄野さんが今読んで、面白いと思った作品を純粋に選んでもらった。だから、本作にはタイトルは聞いたことがある作品もいくつかあると思う。だけれどそれは、今読んで欲しい、今こそ心が揺さぶられる作品なのだ。

 シリーズ第3作を編纂するにあたり、私は庄野さんにひとつ提案をしたことがある。それは、安藤裕子さんの作品を掲載することだった。以前読んだ安藤裕子さんの小説がとても面白かったのだ。それは、ライブ会場で特典として配布された掌編「黒猫」という作品。猫の視点で描かれた現代版「吾輩は猫である」ともいえる秀作で、ごく限られた人しか読めないのはもったいない、もっと多くの人に読まれるべき作品と思った。庄野さんに送ったところ、すこぶる面白く、安藤裕子さんの作品もぜひ掲載したいという連絡がすぐに入った。
『コーヒーと短編』のカバーモデルの出演と、本書への「黒猫」の掲載をお願いしたところ、快諾をいただいたものの、ひとつ提案があるという返信がきた。それは「黒猫」ではなく、書き下ろしの短編小説を掲載できないかという喜ばしい提案であった。
 それから2週間後、安藤裕子さんの未発表小説の原稿が届いた。横溝正史の愛読者である安藤裕子さんらしいミステリ&ホラー作品で、これまでの安藤裕子さんの音楽にも通じるものある。約8000文字の短編ながら、とても読み応えのある作品で、長編を読んだような読後感だ。最後の場面では、読みながら思わず「えーっ! そういうことだったのか」と唸ってしまったほどだった。ミステリ好きの庄野さんからも、すこぶる面白いという連絡が即入り、「謀(たばか)られた猿」が最後に掲載されることとなった。
 後日、庄野さんから「本シリーズの最終作となる『コーヒーと短編』の締めくくりに、この作品が掲載できることを光栄に思う」という旨が記された文章が届いたが、私も同じ気持ちだった。名だたる文豪の近代文学の名作の中に混じっていても全く違和感がなく、すっかり馴染んでいるのは、時代に関係なくずっと読み継がれていくべき、普遍的な作品だからだろう。
 今回掲載とはならなかった「黒猫」も素晴らしい作品なので、またいつの日か多くの人の目に触れる機会があることを願っている。

 最後に、「コーヒーと短編」で庄野さんが綴った文章から、一部を紹介したい。本シリーズを作ろうと話した最初の時に、私たちが考えたことがこの短文に凝縮されている。誰かが渡してくれた大切なものを、次の誰かに届けられたらいいなと思う。

 新しいも古いもない。いいか悪いか、それだけだ。そして、いいものを次へ渡していくのが大人の役目。受けたバトンを次の人に渡す。それが人の使命だ。私はこれからも、それをやっていきたい。そして、私がいいと思うものが全てではないし、違うと思う人がいて当然だ。否定でも肯定でもない、たくさんの人のいいものが至るところで渡される世界になるといいなと思う。 あなたに、先人たちのバトンが届きますように。

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