『くらすたのしみ』と『たべるたのしみ』が生まれるまで
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『くらすたのしみ』と『たべるたのしみ』が生まれるまで

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 大学を卒業し、内定をもらった名古屋の広告会社に入社した。甲斐みのりさんとは、その会社に勤務していた頃に出会った。私は名古屋のとある商業施設の広告を担当していて、キャンペーングッズや施設内の装飾物を企画する仕事を担当していた。
 ある年の施設内のディスプレイを、京都で出版やグッズ制作をしているレーベルに相談したのだが、そこで窓口となってくれたのが甲斐みのりさんだった。自身でもLoule(ロル)という名前のレーベルを立ち上げ、オリジナルのグッズを作り始めたばかりの頃だった。
 甲斐みのりさんはその頃から、いつか東京に行って文筆家としてやっていきたいという夢を持っていた。その1年後、実際に拠点を東京に移し、文筆家になるための修行を始めたという連絡があった。
 特に大きな目標もないまま何となく広告会社で働いていた私は、焦りのような気持ちを持った。このままぼんやり働いていたら、きっと将来後悔すると思った私は、具体的な計画もないまま7年間勤務した広告会社を辞めて、出版業の経験もないのに出版レーベルを始めた(どうして出版だったのかを書くと膨大な文量になるので、それはいずれ機会があれば)。ミルブックスを始めるにあたり、私は甲斐みのりさんから大きな影響を受けた。
 まだ駆け出しの文筆家の卵だった頃から、甲斐みのりさんは自身で体験した様々なことを綴り、それを生業としていきたいと話していた。たとえば、池波正太郎さんのような食を綴った随筆集、向田邦子さん・白洲正子さん・森茉莉さんのような普段の暮らしの中の何気ない愉しみを綴った随筆集のような本を作りたいと。
 周知の通り、今や甲斐みのりさんは50冊近い著書を出版し、語っていた目標を実現した。その著書の大半は、文章とともにたくさんの写真が掲載されていて、その両者が見事に融合している。そこが多くの読者を魅了している所以であると思う。


 東京に引っ越してきてから私は時々寄席に行くようになり、8年ほど前からは贔屓の噺家が増え、頻繁に通うようになった。以前から、ひとりで演じているのに面白いだけでなく人間の本質を描いた落語の奥深さに魅了されていたのだが、近年その凄みをより感じるようになった。
 それは、私の本の編集スタイルにも大きな影響を与えた。大切なことを伝えるには、無駄な装飾を省いたとしても、本質さえしっかりしていたら大丈夫だと思うようになっていった。
 私の意識がそう変化した頃、たまたま目にした新聞に掲載されていた甲斐みのりさんの文章を読んで、とても驚いた。甲斐みのりさんの本の魅力は、文章と写真などの視覚表現の融合にあると思っていたが、文字だけなのに、実際に見たこともないはずの風景が脳内に鮮明に浮かび上がってきたのだ。それは古典落語に通じるものだと思った。
 そして、ずっと以前に甲斐みのりさんが「池波正太郎さんのような食を綴った随筆集、向田邦子さん・白洲正子さん・森茉莉さんのような普段の暮らしの中の何気ない愉しみを綴った随筆集のような本を作りたい」と話していたことを思い出した。
 いつか文章だけの〈随筆集〉と呼ぶにふさわしい本を甲斐みのりさんに出してもらいたいと思っていたところに突然、世界が一変してしまう事態が発生した。自由に外出することもままならない状況ではあったが、時間はたっぷりある。私は意を決して、甲斐みのりさんに連絡した。
 これまで甲斐みのりさんが描いてきたものやことやひとを、文章だけでしっかりと伝える随筆集を作りたい、しかも「食」をテーマにした内容、「暮らし」をテーマにした内容の2冊を作りたいことを話した。この時間がたっぷりある日々を使って、過去の膨大な原稿から、文章だけで風景が鮮明に浮かぶ、いや文章だけだからこそより本質が伝わる作品を選び出し、2冊にまとめたいと伝えた。


 私の意図を瞬時に理解し、快諾してくれたのだが、ひとつだけ懸念があるという。候補作としてあげたいくつかの文章を読み直した時に、文章の未熟さがどうしても気になってしまうというのだ。私は全く未熟だとは感じなかったし、たとえそうだとしても、その若さゆえの青さも含めて魅力的だと思った。
 全てをすっかり直してしまうのではなく、その時にしか書けなかった感情を詰め込んだまま、何度も推敲を重ねてくれた。そうして、膨大な候補作から厳選した原稿を元に、大幅な加筆・改訂・推敲を重ねて、『たべるたのしみ』と『くらすたのしみ』の掲載原稿が完成した。テーマだけ元原稿を踏襲し、全面的に書き直しをした作品も多数あるので、ほぼ書き下ろしと言っても過言ではない。
 昨年秋に発表した『たべるたのしみ』は、タイトル通り食べることの愉しみを綴った文章をまとめたものだ。近年の甲斐みのりさんの代表作ともいえる『地元パン手帖』と同様、それぞれの土地土地に根付いた食の裏側にある歴史を紐解いている。本書にはそれに加え、甲斐みのりさんの食への愛、そして食を通じて語られる家族など様々な人々たちとの忘れられない思い出が詰まっている。いつのかの日の食の記憶を思い出し、懐かしい人や風景が鮮明に呼び起こされる作品だ。


 そしてこの春発表される『くらすたのしみ』は、前作にも増して甲斐みのりさんの本質が全開の随筆集に仕上がった。1冊を通して、他愛ない日々が愛おしくなる、暮らしの愉しみを綴ってはいるが、その視点はより多岐に渡っている。
 愛用してきたものたちへの愛が溢れる〈くらすたのしみ〉、幼い頃から憧れた装いについて綴った〈少女遺産〉、旅で出会ったときめきのかけらを集めた〈旅の中へ〉、本から教えてもらった大切な気持ちを著した〈古本のある生活〉、いくつもの場面で救ってくれた音楽と映画の思い出を描いた〈カセットテープの記憶〉、愛猫と家族とのかけがえのない時間を語った〈猫と富士山〉、そしてなによりも大切な「好き」という気持ちを詰め込んだ〈好き〉の全7章で構成されている。
 誰しも、記憶の中でずっと輝き続けるものがある。たとえそれを忘れていたとしても『くらすたのしみ』を読み終える頃には、胸の奥に眠っていた思い出が鮮明に浮かび上がってきて、キラキラと光る物語として再び心に輝きを与えてくれるはずだ。そして、普段の暮らしの中にこそ輝くものがあることに気づくことだろう。『くらすたのしみ』と『たべるたのしみ』に収められているのは著者の甲斐みのりさんの話ではあるが、読んでくれた皆の物語なのだ。

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