「穢れ」(ケガレ)

※文章は2014年12月のものですが、ある程度加筆修正しています。

Kalafina語りから派生した「穢れ」の概念について。

*Kalafina語り【第一弾】
https://note.mu/mille_lapis/n/n0afd7da58de0
 
*Kalafina語り【第二弾】
https://note.mu/mille_lapis/n/n18bf9a772aaa

Kalafinaの曲は、「穢れないもの」という言葉がテーマになっているようで、とてもよく曲になじむ。
 
闇の中の光。
「穢れ」のなかにありながらも求めずにはいられない「美しいもの」。
前へ進むには足掻くしかない。
理想の自分と現実の自分との葛藤。
自分の求めるものと、置いてきたもの。
 
「穢れ」の概念は、Twitterで見かけたこの言葉が、忘れられない。
(元ツイは削除済み。オリジナル(初出)は不明)

 あるお寺の住職の話「汚いですが、コップにおしっこをしてからそのコップをきれいになるまでよく洗います。その後そのコップにお茶を注ぎ、飲む。この時に感じてしまう心理的抵抗が『穢れ』の本質なんです。おしっこがコップに残ってなくても感じてしまう。この『穢れ』が様々な差別につながってきた」

神道たん@Shinto_tan

あと、このfacebook記事も興味深い。ちょっとスピリチュアル的なのが苦手な人には、微妙かもしれないけど…ただ私はこういう概念を知るのがおもしろいので。

「穢れ」と「祓い」
https://www.facebook.com/notes/%E6%BD%AE%E5%BA%B7%E5%8F%B2/%E7%A9%A2%E3%82%8C%E3%81%A8%E7%A5%93%E3%81%84/516017968518812

「穢れ」という言葉は、校正をする上では、慎重になる言葉(本当に書いていいかどうかの確認が必要)。
確かに、頻繁に軽々しく扱っていい言葉ではない。
だけど、この言葉の重みを知っていて使うのであれば、私は、使うことを恐れないでほしいと思う。怯えないでほしいと思う。
「穢れ」は、人として生きる上で、どうしても、切っても切り離せない、「生きている証」と対をなすもの、表裏一体だと思っている。
そしてそれは、「拭い、祓い、清める」ことができるはずなのだから。
 
哲学者カントの「性悪説」を少し思い出す。
ちゃんと理解できたわけじゃないんだけど。
でも、「自分がこれ以上悪い人間にならないために、少しでも良い人間を目指す(これは性善説では説明がつかない)」という内容は、なんとなくわかる気がした。
なんとなく、私に当てはまる気がした。
 
私は、自分がそれほど良い人間ではないことを知っている。
だから、油断すると自分を甘やかしてしまう。
だから、「自分を許したくなかった」のだと思う。
 
私は強くなりたかった。
強くありたかった。
でも、なれなかった。
私にできたことは、「束子(たわし)の心臓」になることではなくて、「自分は“束子”にすぎない」と知ることだった。
 
…ちなみに…「たわしの心臓」って方言か何かなのかな…(・・;)
検索したら、あんまりヒットしなくてちょっと戸惑っている…。
普通にごく自然に出てきた言葉なんだけど…通じるのかなあ…まあ、ニュアンスがわかれば私はいいんだけど…わかるのかな…まあいいや…。

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