【「君と夏が鉄塔の上」読書感想文】まだ見ぬ鉄塔を見に。


 彼らが“見た”ものは何だったのだろう?

 それが、「君と夏が、鉄塔の上」を読み終えた私の一番初めの感想だった。この話には、主人公である伊達の他にキーパーソンとして二人の友人が登場する。二人とも、伊達が見えないものを見ることができる。幽霊が見える比奈山と、鉄塔の上の男の子が見える帆月である。帆月は、あらゆる部活への入退部を繰り返したり、自転車で飛ぶために学校の屋上から飛び降りようとしたりする少々変わったところのある女の子だ。夏休みの登校日に、彼女が伊達と比奈山に声をかけたところから物語が動きだす。比奈山は幽霊騒ぎが原因で不登校になっており、生徒たちは腫物に触るように彼には話しかけないのが普通だったのだが、帆月が「鉄塔の上に男の子が見える」と言い出したことをきっかけに、今まで接点の無かった三人でその謎を解き明かすことになる。

 彼ら三人は、この夏休み以前はそれぞれ違う世界を見て過ごしてきたのではないかと思う。まず比奈山は、幽霊が見える。しかし彼はそのことを良くは思っておらず、その能力に外れくじを引いたと感じている。幽霊が見えることが原因で友達をなくし、学校に行きづらくなったというのだからそれもしょうがない。今まで仲の良かった周囲の人間が、簡単に自分から遠ざかってしまうという経験も、彼をどこか悟ったような性格にしていたのだろう。

 次に帆月は、鉄塔の上の男の子が見える。何をするでもない男の子の姿は、帆月が触ることで伊達や比奈山にも見ることができるようになる。彼女は三人の中でも最も「見ること」に拘っているように感じる。鉄塔の位置は知っているから実際に行く意味はない、という伊達に対して「知ってるだけでは駄目。行ったこともやったこともないのに意味がないなんてことわからない」と言う台詞があるが、実践、つまりその目で確かめることを重視しているのがわかる。

 伊達は、二人に対して平凡な少年として描かれており一見して変わったことはないように見える。唯一変わっている点といえば鉄塔好きだという点で、作中でも「気持ち悪い」と表現される場面もあったが、これは立派な彼の視点なのだと思う。私には今まで、おそらく鉄塔は見えていなかった。物理的には見えているけれど、認識していなかった、というほうが良いかもしれない。例えば、物語の中心である93号鉄塔について「前後に碍子連を伸ばし」ているという説明がある。碍子連という言葉自体を知らなかった私は、その漢字変換にすら四苦八苦しながら検索することから始めた。出てきた画像を見てわかる程度には目に入っていたのだが、私の中ではこれは、「左右に伸びて」いるものだった。これが伊達、あるいは作者にとって前後と捉えられているという事実は、非常に興味深い。少なくとも伊達と私の間には鉄塔の前後左右の認識に差があったのだ。そんな鉄塔も、伊達にとっては学校や友人と同じくらい日常の景色としてそこに存在感をもって見えていたのだろう。

 中学生の頃を思い出すと、学校が世界の全てだったように思う。友人に嫌われないことが大事だったし、クラスで浮かないことが生きていく術だった。多かれ少なかれ、誰しもが空気を読んで過ごす学校という社会は、会社よりもよっぽど厳しい世界だと思う。私は小説や漫画が好きだったが、そのことは隠していた。少女漫画ならまだしも青年漫画や薄着の女子が描かれたような漫画は、ヲタクっぽいとして排除の対象だったからだ。その生活がそんなに辛いわけでもなかったが、「気持ち悪い」と言いながらも友人と趣味の話に耽る伊達の姿は、あの頃できなかった姿を見ているようで気持ちが良い。伊達は、学校社会の厳しさに直面した比奈山や、目立つことに必死になっていた帆月、趣味を隠して生きていた私とは異なる「なんてことない」クラスを見ていたのだ。

 さて会社勤めをする今、見える世界は広がったのだろうか。世の中のしくみがあの頃よりはわかるようになった。会社の同僚が全てではなく、その環境を自分で変えられることも知っている。しかし、私の見えている世界は相変わらず、「知っているだけ」に過ぎないのかもしれない。知識を得、それだけでこれ以上は意味がないとどこかで思っているのかもしれない。思えば中学生の頃は、自分の感情や好奇心を今よりも機敏に感じ取り、行動していたのだと思う。それはきっと、知らないが故の行動力もあったのだと思うが、自分の見える世界を広げていくためにはいつの時代も「見に行く」ことが全てなのだろう。

 この物語のもう一つのキーワードは「忘れる」ということだ。学校生活における帆月の奇行は、夏休み後の転校とそれにより「忘れられたくない」という思いに起因していた。そして、伊達が書いた「忘れられた街は、思いを馳せることで甦るのではないか」という読書感想文はそんな帆月の考え方と一致するものがあったのだ。故人に対して、残された人たちの記憶の中で生き続ける、というのはよく聞く言葉だが、私は「思い出す」という行為はその対象ではなく主体、「私」のための行為だと思う。例えば今、誰か昔の同級生が私のことを思い出していたとして、思い出されることは私に何の影響も与えない。それに伴って連絡をとる、などの行動が伴えば話は違うが、思い出されるだけでは私には知りようもないからだ。帆月は離れて暮らす母親から忘れられたという経験が大きな焦りとなっていたが、娘の記憶を“失った”のはやはり母親なのだと思う。

 そして同時に、「忘れる」というのは永続的なものではない。過去に体験した全てのこと、関わる人はおそらく記憶の深いところに頑丈に、固めて、鍵付きの宝箱にしまってあるようなものだと思う。大人になるほどそれらは増えて、どんどん取り出しづらくなっていくけれど、そのぶんその人の根幹に関わる大事な部分になっていく。それでも、何かしらのきっかけがあればぽろっと表層に出てくる、そんな存在に。帆月と伊達、比奈山にとってそれは鉄塔になっていくのだろう。93号鉄塔でなくてもいい、街を歩きながらふと見上げた鉄塔の上に男の子を見出そうと目を凝らすそのとき、自分の隣に友人たちがいた夏休みを思い出すことができる。それは帆月にとっても「相手が覚えているか」の不安ではなく、思い出すことによる自らの幸福感になっていくはずだ。これは知っているだけではなく、私が大人になって感じた実体験なので、自信をもって伝えたい。

 十年以上前に過ぎ去った中学生活を爽やかに生きている彼らの姿に触れて、すごいことでなくてもいい、鉄塔の先で会う約束をした彼らのように私も何かを見に行きたいと強く感じた。踏み出せていないこと、実行に移せていないこととは何だろう。そう考えたとき、答えは向こうからやってきたのだった。まさにこの読書感想文キャンペーンである。小学生以来書いていない読書感想文だが、感想は持っているし、そんなに苦労はしないだろう。しかし、そうは言いつつ忙しい日々を言い訳に書ききれないかも――そう思うほどに、これを完成させることの意義は大きくなっていた。これを書ききって提出すること。今これを読んでいる誰かがいるなら、私もまだ見ぬ鉄塔を見にいく最初の一歩を踏み出すことができたのだ。