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『一月は、母を連れて秋田へ』


<3年前の母の言葉>

今年87歳の母が、3年前、私にこう言った。

「もう年だから、今年が秋田に帰る最後だと思う。」
「だから連れてって」

思い返してみると私は幼稚園の頃から、母と二人で電車に乗って母の故郷、秋田に帰った経験があまりない。家族5人が一同こぞって電車移動するとお金がかかると言うこともあってか、父の運転で秋田に帰省していたのも、1つの理由だろう。

なまはげ


<私の幼少時代の母>

私は母とは別々に、小学校の頃から、夜行列車に揺られ、叔父(母の弟)とともに母の実家、秋田まで移動することがほとんどだった。
小学校高学年になった私は、秋田までの列車の切符を買うのも、時刻表を自分で調べ、時間を考え自ら購入していた。行きのお金だけは、渡してくれた。いま、考えてみれば、小学生の私が、なぜ自分で切符を購入していたのだろうと思うし、なぜそうさせたのかは気になるところである。
ある意味、自分がやりたいのならば自分で準備をして、段取りを整える。そこまでできれば、自分でやりたいことをやって良いと言う、教育方針なのかと思っていた。
少しずつ私の中に親と言うものの行動の不思議さを感じる場面はたくさんあった。
母は少なくとも、決して段取りよく物事を片付けていくタイプではない。母にとって、時間的に余裕がなく、何か小学校の私の準備をしなければならないと言う時、必ずと言っていいほど、母の口からこのような言葉が飛び出した。

「そんなこと、すぐにできるはずないでしょう」

と言って、小学生からの手紙の出欠席のサインですら、すぐに書き終えようとすることのない人だった。
親と言うものの行動と反応を見れば、子どもは何らかの対処方法を考えて育っていく。
母は
「字が下手だから書きたくない」
と言うことを理由にした。
母は、自分が文字を書くのが下手だと、自分で自分を評価していた。
そういって、自己評価している母なのに、人の文字を見ては
「へたくそな字」
と口にしているのを聞いたことがある。
自称、字の下手な自分ではあるので、手紙へのサインをする場面状況からは、ひたすら逃げていた。

美瑛色彩の丘

<母がヒステリックになるとき>
小学校中学年の時の私は、学校から持ち帰った手紙に、保護者氏名を書くのは自分だと思っていた。母に書いてもらった記憶は全くない。私自身が手紙の文章を読み、内容を母に伝え、サインをしておくと母に伝え、翌日学校に全て持っていった。
新学期の家庭調査票や、自宅までの地図等の用紙も、母が書くことはなかった。書いてもらった記憶は無い。
ある意味、専業主婦ではない母を、忙しいから仕方がないと、子ども心に思っていたが、今自分が親となり仕事を続けていたことを思えば、答えはこうだ。
母がヒステリックになるのは、できない自分を隠すことだったのだと思う。感情むき出しになって、泣き叫ぶこともあった母。自分にはできないから、あなたがやってと言うサインだと子供なりに解釈した。
だから、87歳になった母はいまだに成長する事はなく、ことあるごとに嫁に行った私も家族の枠組みに入れ、母が自分のできないことを、やってほしいと丸投げする対象になっているように思える。

<父の死と母の感情爆発>
2017年4月8日、父を在宅で看取った。
本来であれば喪主は、母が全うする予定であった。しかし、葬式前夜に母は、またヒステリックを起こし
「私は葬式には出ない」
と言って布団に潜り込み心を閉ざした。
自分の感情が乱れると、それは周りの誰かが自分の感情を乱す言葉や行動をしたからと言って声を上げて泣いたのち、布団に突っ伏して葬儀を2~3日、人との関係を閉ざす。
しばらくすると、ばつが悪いのか、まったくなかったことの様にふるまう。このような感情爆発とその後の行動をする母を、私は何度も見ているし、知っている。


<生涯成長・生涯発達の原則>
87歳の母が変わろうと思えば、まだまだ本当は行動変容ができる余地はあると思う。
・足の筋力が落ちてきたから、歩くのが疲れる。
・筋力が落ちてきたから、二足歩行でふらついて、めまいがする。
・めまいがするから、歩くのが大変。
・大変だから歩く距離が減ってくる。
・結果的に補講する筋力が落ちる悪循環は続く。

人間は死ぬまで成長する。そして精神的発達も死ぬまで本人が変容しようと思えば可能である。
人間と言うものを私はそのように捉える教育を受けた。そして、これまで看護の対象者と語り、その人のできることを一緒に考え、共に成長と発達を遂げる場面を互いに喜びたたえあう場面に沢山であった。

青い池

<母にとっての旅をする評価と行動様式>
母は、一人旅をする私を
「かわいそうだ」
と言う。
私が1人旅をすることで、どれほど多くの人と出会い、その出会いからその土地土地で様々なエピソードが生まれるたことを語ってみても、根底に一人旅はかわいそうだと思っている母には、旅の醍醐味を伝えられないままでいる。伝わらない。伝えようとしても受け皿がない。
2022年1月、(2019年1月に最後の秋田への帰省になると言っていた母)、その母を連れて3年ぶりの秋田への旅行を計画している。
これまで語ったように、今回も母は全て私に段取りを託し、経済的な面でも母にとっていまだに家族の一員の私に、母のしたいことを支えるものだと思っている。娘なのだからという血のつながりを根底にしているようだ。
私は、これまでの自分が育ってきた過程での、母の言動や状況に対する反応、ヒステリックな様、これらを知り尽くしたゆえに、母が死ぬまで、できる限り支えるしかないと思っている。

<兄と私の社会化>
1つには、私は3人兄妹の関係だが、兄2人は人の心に疎い。書物から知識を得ることを好んでするが、家以外の場所に出向こうとはせず、自分自身を動かすことを喜んで行うことがない人たちだ。これまで、書き連ねたように、母の行動様式と、兄2人の行動様式は非常に似通っている。
社会学で言うところの人間の社会化と言うものが、私は早いうちに実家を出て、家庭と言うもの以外の環境に身を置き、もまれつつも優しい人々に恵まれ、人と人とのコミュニケーションを介して今の自分が形成された。
育ててくれた母、そして兄達よりも行動範囲も広く、家庭環境も違い、生活環境も違う人々から刺激され、学んで育った。
また幼少期から、母と言う存在を逐一眺め、観察し、常に反面教師と言う目で見ていた。

この状況であのような発言はしたくない。
ただのサインをするだけで、ごねるような言い訳をしたくない。
文句を結うよりは、やるべきことを終えるのが先決だろう。
云々。

母の様になりたくない場面を思い描き、
「ああは、ならないぞ。」
「ないなんでそんな言い方をするのかな?」
と、思い続けてきた。

人のために時間を使うことに集中し、忙しくとも朝発狂することなく、優先順位を考え同時に複数の業務を全うする先輩たちを目にしてきた。

<泣き叫べる子どもが意味するもの>
スーパーで母親におねだりをしても、買ってもらえないと泣き叫ぶ子ども。
思うように事が運ばないと喚き散らす子ども。
頼みごとをすぐにやってもらえないと泣いて訴える子ども。

そのような子どもを目に知ると、自分の感情をそのままだして良いと言うことを許されて育った子どもだろうと、観察する私がいる。

私は子どもの頃、自分の感情をそのまま吐き出し、母にぶつけると言う事を、したことがない。もしも、感情を母にぶつけたら、母が受け止めるどころか、より一層母を発狂させるだけで、結果として周りに影響が大きく出ることが見て取れていたからだ。

人に依存をして生きていると言うこと。それによって自分の生活を維持し、自分の欲求が満たされると言うこと。自分で考えて自分のしたい事柄を見つけ段取りを整えること。一般的に誰でもできることのように考えられがちだが、私の周りにはそれができな人が子どもの時から周りにいた。多様性と言うことに対して私が敏感になったのはこういった環境の中で育ったかからだと思う。


<環境と成績と多様性>
成績が悪いのは努力が足りないからだと評価することがあるが、努力が実を結ばないと言う生育上の問題と言うものを忘れてしまってはいけないと思う。
また努力をしたから成績が良いと思っている人がいるかもしれないが、もしかしたらそれはあなたの生まれた環境がそもそも恵まれていたから、同年同日に同時に生れ落ちても、その後のあなたには、どれほど依存することが許される環境であったかの分析を抜きに、考えてしまっていいものだろうか。

今夜は、母を秋田の実家に連れて行くための航空券のチケットを購入するために起きていた。
2021年12月1日0時から、JALのタイムセール開始。チケットの販売だった。
秋田には、LCCの航路が確保されていない。

年が明けて2022年6月には、母を石垣島に連れて行こうと思っている。3年前は、実家に行くのが最後だと言っていた母であったが、2021年夏に私と母は、北海道富良野と美瑛の2人旅をした。
海道旅行を私と2人でした時

「本当は私も旅行に行きたいのよ」

こんな言葉を母が吐露した。
行ってみたい。見てみたい。と言う母の欲求の先にあるのは、石垣島で「サガリバナ」の開花と一夜限りで散る様を見てみたいと言う気持ちがあるからだ。

六花亭

<不器用な母を生涯支える決心>
私の中の決心は、ここまで育ててくれた母、不器用な母、ヒステリックの母、多重課題を処理できない母、自分で物事を計画し購入することができない母、こんなにも不器用な母が、私と兄2人を育ててくれたと言う事は感謝しかない。
あの発狂する母が、よくぞ私たちを殺さず育ててくれたと思う。私は、母が発狂する様子、ヒステリックにものに当たる実情を見ていた。もしかしたら、この人は私を殺すかもしれないと本気で思い、寝るのが怖かった時がある。

それ故私は母が死ぬまで、やりたいと言うことをやらせたい。行きたいと言ったところにいかせたい。行きたいと言う言葉を口にしてやってくれる人がいると言う状況を作っておきたい。決して私は今、過去の母を憎んでいるわけではなく、母と言う1人の人間の中にある多様性を私自身が受け止めることができるようになった。
そこが子どもの時の私からの成長と発達だろう。
2021年11月30日
                              MILK

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