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私の紹介

はいたーい

このノートを書くのに時間がかかってしまいました。

何から書けばいいのか、どのように書けばたくさんの方に見てもらえるのか悩みました。

紹介してくれた友達に色々アドバイスもらいながらやってみます。

温かい目で見守ってくれたらうれしいです。

 

さて本題にはいりまーーーーす、、、、、、

 

ここから長文になってしまいますが、私の人生やどういった生活をしてきたのかまとめてあるので目を通して読んでほしいです。

よろしくお願いします。

2017全国高等学校総合文化祭弁論部門 最優秀賞&文部科学大臣賞受賞

私は生まれたときから耳が聞こえません。
「この子は音が聞こえない高度難聴です」
医師からの診断に両親はショックで涙が止まらず、私の将来を心配して途方に暮れたそうです。その中でも両親は、インターネットや人伝えに情報を集め、評判のいいといわれる東京の病院にも毎月通う努力をしてくれました。そして、3歳の時に人工内耳の手術を受けました。
その後、近くの普通学校に通いながら、ろう学校にも通い、様々な訓練を受けました。そのため小さいときは手話も使っていましたが、周りの健常者の多くは手話が分かりません。一生懸命に手話を使いながら話してもなかなか通じず、時にはバカにされるようなこともありました。ある時母は、私に手話を使うことをやめさせたそうです。いろいろな考え方があると思いますが、私の母は、娘がみんなと同じ世界で生きてほしいと願ったそうです。しかし、現実は厳しいものでした。言いたいことが伝わらず、涙を流したことも何度も何度もありました。
小学3年生の時、転機が訪れます。同級生に「一緒にサッカーをしよう」と誘われたのです。地元の普通小学校のサッカー部でした。でも私以外、健常者です。ついていけるのか、またあの頃のようにからかわれたらどうしよう、との思いがよぎりました。そんな私にチームの仲間は優しく声をかけてくれ、監督もどんどん試合に出してくれました。次第に私の中で、サッカーがかけがえのないものになっていきました。
その後私はプレーする場を広げ、現在は校外のクラブチームに所属しています。健常者と一緒にいるときに感じた不安は、今はありません。共に楽しく汗を流しています。周りと関わることに臆病だった自分が、変わっていきました。
中学2年の時、大きなチャンスをつかみます。聴覚障がい者で行うフットサルの日本代表候補に選ばれたのです。2ヶ月に1度は全国各地に遠征し、技を磨きました。そして2015年、タイで開催されたワールドカップの日本代表に選ばれたのです。最年少、14歳。一つの夢が叶った瞬間でした。バンコクで開かれた大会には世界中から13ヵ国が参加。国の代表として来ているという闘志みなぎる試合が10日間繰り広げられました。日本は、ロシア、スペイン、イタリアなどと戦い、6位になりました。私はイランとイギリス戦で得点することができました。試合が終わるとお互い握手したり、抱き合ったりと、言葉が通じなくてもお互いの健闘を称えあいました。素晴らしい体験でした。
サッカーと出会い、私の世界が広がりました。生まれたときから耳が聞こえない私がこの世界で生きていくには、越えなければならない壁がいくつもあります。しかし、努力すれば、1人の人間として自分の可能性をどんどん広げていける。そのことを、私は今、実感しています。それは障がいがあったからこそ分かったことです。
そして、もう1つ、私が強く感じているのは「周りの支えがあってこそ、今の私がいる」ということです。チームの仲間、コーチ、そしてどんなときでも最後まで私の夢を応援してくれる両親には、本当に感謝しています。両親の支えがあるからこそ、目の前にそびえるどんな高い壁にも、勇気をもって挑戦することができます。
これからも私は、自分の人生のピッチを走り続けていきたい。私の挑戦は、まだまだ続きます。

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