人のぬくもりと生きる感覚
残暑厳しい2021年9月。私は1週間、東京に滞在していた。
その時に泊まった宿が浅草にあり、少し歩けば雷門や浅草寺があるような場所だった。いわゆる観光地。
でも、私は観光地としての浅草より、人の暮らす街としての浅草を好きになった。
その理由は、銭湯にある。
お風呂に毎日浸かることだけは、私の中でどうしても譲れない。
でも、宿にはバスタブがない。
そうだ、銭湯に行こう。
そして、一番宿から近かった曙湯へ。
銭湯といえば、テルマエ・ロマエのイメージを持っていた私からしてみれば、まさにそれが体現されていて、ちょっぴり感動した。
でも、それだけではなかった。
銭湯で、人の暖かさを感じた。
ただでさえ、人に会う機会が減っているし、コミュニケーションもオンラインが主流になりつつある。そんな中でも、外からやってきたわたしに、銭湯を使っている人たちがとても優しく接してくれたのだ。
一度、シャンプーなどを銭湯に全て忘れて宿に戻った時があった。
次に行った日に、番台のおじいさんが「女湯のここに忘れていたよ、気をつけてね!」と親切にも教えてくれた。シャンプーについていた水気は綺麗に拭き取ってあった。
また他の日には、ジャグジーのついたお風呂に入ろうとしたら、近くにいたお姉さんが、入り方を教えてくれ、「いつも見ない顔だけど、どこから来たの?」とお話ししてくれた。
また、いつもお店に出入りする時には、どんなお客さんも互いに「こんばんは」と言い合ったり、黙ってお辞儀をしたりしていた。
この銭湯でのひとときは、自分が「人とともに生きる」という感覚を蘇らせた。
それこそ、最近は「ご近所付き合い」なんてものはなく、1人暮らしをしていても、両隣や上下に住んでいる人が誰なのかも、全くわからない。
ましてや、新型コロナウイルスが拡大してからは、人と接触すること自体が悪となり、人間関係の構築もより難しい時期となってしまった。
それゆえ、常に自分はどこか社会から取り残されているような感覚に襲われる瞬間もある。
こんな寂しさをはらむ社会に、ましてや東京の浅草に、
こんなにも人のあたたかさを感じる空間があることに、とても感動した。
浅草は、観光地だからこそ、いろんな人が出入りする空間で、そこに人のふれあいは少ないかもしれない。でも、中心街のような場所から少し外に出れば、人の生活がある。
当たり前のことかもしれないが、自粛生活に疲れた私からしてみれば、生きている感覚があって、何かが研ぎ澄まされるように感じた。
わたしの住む福岡も、最近は再開発が進み、どんどん新しいビルが建ち、古いものは壊されていく。老舗は閉店し、関東・関西・海外からビジネスを含めて様々なものが流入し、今までにない色にまちが染まっていく。
銭湯からの帰り道、自分の住む場所のことを思い返しては、
本当にこれでいいのか?
本質的な何かを見失っているんじゃないのか?
新しければいいのか?
古いものの価値ってなんだ?
などなど、本当にたくさんのことを考えた。
いや、考えざるをえなかった。
人の交流の場であり、憩いの場であり、生活の場である銭湯も、時代の流れには逆らえず、閉店になるところも少なくはない。
ビジネスのことを考えれば、やむを得ないのかもしれない。
裏を返せば、
それは本当に人間の心の豊かさや、繋がりを生むものなのか、
いろいろなことを考えた。
「人のぬくもり」
「人とともに生きる」
これらは、決してお金で買って、解決できるものでもない。
でも、それらがコロナ禍もあいまって、悔しいけれど、軽視されつつあるようにも感じているのは事実。
わたしは「人間である以上、社会と関わりながら生きている」と思っている。
その中で、人との交流は避けては通れない道ではあるし、むしろ、それがあるからこそ人は成長するのだと思う。
社会との接点という意味でも、この銭湯が担う役割はきっと大きいに違いない。
そんな銭湯をこれからも残していきたいし、それが人の心身の活力となって、人々の生活の推進力になって欲しいと思う。
そして、わたしのような外から来た人に対して、ここまで温かく接してくれる場所は、もうそんなにないかもしれない。
人のぬくもりや、生きる感覚が欲しい人は、
ぜひ銭湯にいってみよう。
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