色が変わる

【大学時代の日記より】

もう、今しんでしまった方が、若く美しいまま終われるんじゃないか、

東京オリンピックで栄光を飾った日本のマラソンランナーが、輝きが錆びないうちに自害したのを聞き、
「もうどうにでもなれ」という自暴自棄本能が働く私は、そう考えてしまった。


二十歳をすぎると人は変わらない、とはよく聞くけれど、
今、二十歳と一年半たった私は、最後の人格修正をしている最中である。

考え方は、喜怒哀楽を経験して360度変わる。他人や著者、メディアの思考に流されてみる。いっそ自分でない何かの道に合わせてしまった方が、楽だからだ。でも、何かは自分でないことに気づき、傷つき、考えなおして、それを繰り返して繰り返して、本物はまだ見つからない。


自分でない理想、向上心のような無い物ねだりを追い求め続けてきた私人生だ。

その何かに向かって必死に闘ってきた私や母や父は、また別の何かに騙されてばかり。大事なものがみえていない。みようとしていない。いつもその時の強い軸のようなものが変わっている気がするのだ。追い続けている何かは、結局求めていたものと違っていたりする。

二十歳から変わらなくなるなら、今いい大人になりたい。
美人になって出世してお金持ちになる、
とかそんなパッケージではなくて、
何か大事な強い軸が、ブレない何かがある人が、いい大人ではないだろうか。


その、人生で一番大事にしたいものは、何なのか正直迷う。日常的に、常に、心に置いておきたいことだ。その何かから行動を起こすのだと思う。それは既に行ってきたことの根源で、今こそ認識して信念に変えたい。

人や物に湧く情なのか、
純粋に欲望なのか、
表現活動をしていきたい運命なのか、
夢に酔っていたい麻酔なのか、
なりたい自分になる無い物ねだりともいえる向上心なのか、
人の為に生きるのか、
自己の為に生きるのか、

この中には、ヒントになるが、どれでもない。
どれも大切で、必要で、どうしてもやってしまうことだからだ。

どうしても人は、欲なのか情なのか夢なのか運命なのか、勘違いのような、そのきっかけは様々で、欲しいものを向上心に変え、手にいれようとする。

「こうなりたい」
実際そこに存在した時に、私は元々こうなるべき人間だった、もしくは、私は元々こうなるべき人間ではなかった、どちらを感じるだろうか。
できれば、前者を強く感じていきたい。というより、そう感じられることだけ追うべきだろう。

「私は、元々こうなるべき人間だった。」
そう察するには、ベースが必要である。簡単な基盤だ。それが、今まで論じてきた何かである。
実際に追い求めたそこに存在した時、
とは
今ここに存在している時、
と同じように考えてほしい。

今、そばに存在している事柄を重く感じているだろうか。
少しでも才能をもらった自分に、
感性を表現できる環境に、
感謝しているだろうか。
今を重く感じられない人間に、どんな輝くような理想の未来が掴めようとも、幸せは感じられない。それは、時間軸が変わっただけで、「今に感謝する」という観念は変わらないからだ。


今に感謝する。
私のブレない重い軸は、ここだ。

綺麗になるなり、恋愛するなり、表現活動するなり、絵を描くなり、
私は元々こうなるべき人間だったと実感する未来だけ追って生きていきたい。

人生、気づくか気づかないかというけれど、
今を感じることで、日常の色が変わって見えてくる、明日から道端の花に色がついていると感じたなら、私の未来は幸せだ。

【大学時代の日記より】

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