風呂の戯れ

広いお風呂というのはいい。

身も蓋もない只の個人の好き嫌いのハナシだが、かれこれ銭湯や温泉にはまってから数年が経ち、家の風呂を使う事が無くなり、石鹸も割れちゃったりシェーバーも錆び付き放置で、シャンプーやリンスなんかも出口あたりで固まって出て来なくなっていそうである。家のそこだけ、一部廃墟と化している。

風呂好きになる理由の一つに、私の全く敬愛していない脳科学者の茂木健一郎が、著作の中で「露天風呂の高揚感はファーストキスのようなもの」と語っていて、どうやら脳は極端な感覚の変化に敏感で、熱いのと寒いのが同時に、または交互に味わえる風呂は脳にとって心地よい環境という事らしい。快感を求めて、我々風呂好きは暑かろうが寒かろうが雨だろうが重い風呂セット持参で毎日通うわけである。しかし『ファーストキス』という単語が中年の男性から放たれる様は、なんとも言いがたい味わいがある。しかし恥ずかしくないのかね、ファーストキスて。

まぁ、いいや。


先日、ゴルフ場に併設された温泉へ行った帰り、湯冷ましとばかり山の中を奇麗に舗装した一本道を歩いていた。少し歩けばバス停くらいあるだろうと、呑気に軽快スキップである。木々の匂いも清々しく、風呂で上気した頬に風が心地よい。

20分くらい歩いていると、日が陰り始めた。それから20分、とっぷりと暮れてしまった。

山の日没は恐ろしく早い。針葉樹に覆われ、先ほどまで聴こえていた、可愛らしい小鳥の鳴き声は、怪しげな夜の獣のキーキーという奇声に取って代わっている。歩けども歩けども、真っすぐなコンクリート一本道と永遠と続く木々の群れ、バス停なんて絶望的で、時折大きな松ぼっくりにつまずいて、涙が溢れそうである。

その時、後方から一台の軽自動車が走ってきた。何か車から人が大声で呼び掛けている。はて?

「熊が出るぞーー!!!」

運転席の中年男性が私に危険を促しているのであった。

私の真横に車を寄せると「危ないから、早く乗りなさい。送って行ってあげる」という様なことを早口でまくしたて助手席を開け、しきりに手招きする。私はその尋常でない慌てぶりに真っ青になり、急いで車に乗り込み取りも敢えずお礼を言った。

車が走り出し安堵したのも束の間、車内の異様さに0コンマ1秒で気が付いた。

酒臭い。

背中に冷たいものが走る。運転席の男性は「この辺は熊が出て危ないんだよ、俺が通って良かった。国道まで送って行くよ」というニュアンスの事を話しているが、呂律が回っていなく聴き取りにくい。先ほどは慌てて早口になっているだけだと勘違いしていた。

足元を見ると、コンビニ弁当の空き箱やら何かの紙くずやら得体の知れないゴミが散乱し、酔ってふらつく運転で、音を立てて右へ左へ流れ私の足へまとわりつく。車内の不潔さが更に私の恐怖を助長させる。

降りようかとも思ったが、こんな所で降ろされ轢かれでもしたらとか、気に触った男に刺されでもしたらと想像が膨らみ、ひたすら携帯を握りしめ引きつり笑いで、ラ行のみで話す男に相づちをガンガン打ち続けた。


数分が10時間に感じられた後、外灯明るく車がビュンビュン通っている国道に出た。ちらと男を見やるとニヤリ「ここまでは私有地だから飲酒でも大丈夫だったけど、こっからは出られない。タクシーを拾いな」と、急に明瞭に話し始め私を降ろし、手を振り来た道を引き返して行った。

なんだか狐につままれたような感じで私はタクシーを拾い、その運転手さんに「ここ熊がでるんでしょう」と聞くと「そんなもん出た話し聞いたことないよ。もし出るんならもっと森の奥だよ」と言われ、更に何だったのだろうと首をかしげる事になった。


飲酒運転はダメです。私有地でも。という、風呂にまつわらないお話でした。







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