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1000文字思考 その36 「尊敬は憧れと距離を置くこと」

自分とは違う世界で、違う境遇で、違う心持ちで何かを成し遂げた人あるいは成し遂げようと研鑽している人に対して最大限の敬意を込めて

「尊敬しています。」

と伝えることがある。

相手の一部分、または全体に対し畏怖に近いものを感じた時、いわば「距離を置くために」尊敬していますという言葉を使うことに気がついた。


私は芸術家の岡本太郎の生き方、考え方、それを現実のものにするための覚悟が恐ろしくてたまらない。だからとても尊敬している。

私は到底、岡本太郎になれないし今より一歩近づくことすらも怖い。彼の展示会があれば都合が合えば必ず行くし、彼の作品の目の前に立つために東京の渋谷駅に夜行バスで行ったこともある。
彼の著書は全て読んだ。たくさん感銘を受けてたくさん泣いたが、正直共感できない部分も多々。

というか、共感出来てしまうのが怖いという表現が正しいかもしれない。

だから私は、「岡本太郎を尊敬している」と言って暗に「私は岡本太郎では決してありません。彼のような人生を堂々と送る勇気など微塵もない。なるべく岡本太郎の反対にいて、かっこ悪く生きてゆくことを許してほしい」と思っている。

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こんな私でも、他人に「尊敬」されることがごく稀にある。(冗談かもしれないが)

毎日アルバイト終わりに資格の勉強をしています、とバイト先の店長に話すと、

「へー、すごいね。尊敬しちゃう。」
と言われた。
もし仮にこの言葉がおべんちゃらなしだと考えその真意を突き止めると、

「へー、そんなことしてるんだ。違う世界の人なんだね。私はしないし、したいとも思わないけどね。」
だと思う。

「尊敬」と言い放つことにより、「はいあなたは凄いですね、頑張ってください私は貴方みたくは成れませんが」と距離を置かれているように感じた。

もし「この人は素晴らしい。でも私も努力を重ねれば少し近づけるかもしれない。」と感じた場合、このような距離は生まれないだろう。
憧れに対しては尊敬の念を抱かない。

さまざまな世界に数人いる「カリスマ」という存在は、ある意味尊敬からは距離の置かれた「本気出せば誰でもなれそうな存在」なのではないか。

「俺は〇〇みたいになりたい」
「正直、私〇〇より凄いと思う」

こう思われる、でも誰にもなかなか抜かされないありふれた唯一無二の存在こそがカリスマでは無いか。

孤高に闘う人に、多くは「尊敬の念」を抱き、距離を置く。

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