「日本は世界の名古屋である」と村上春樹は言った

ここ数年、自分がもやもや挑戦しつづけている分野について言語化を試みてみようと思う。

確か『地球のはぐれ方』という本の中で、村上春樹が、「日本は世界の名古屋である」と言っていた。日本の中では、わりとラディカルな食文化(あんかけスパとか小倉サンドみたいな)を持っていて、他地域から見るとイロモノ的存在の名古屋だけど、日本だって世界から見たら名古屋なんだよ、みたいな話だったと思う。

私はネット黎明期からコンテンツ作りの仕事をしているのだけれど、その頃のネットって、同じようにメディアの中の「名古屋」だった。たとえば、テレビや雑誌なら美味しいお店や素晴らしい景色などをストレートに伝えても数字は取れるけど、ネットの場合はネタ感がないといけない。B級だったり、マニアックだったり、サブカル的だったりする「変わり者」でないと、ネットでは受けない、というか広がらないのだ。

まぁ、自分もマニアックなほうだったのもあって、名古屋にすぐに適応し、そこで受けるものを提供してそこそこの数字を取れると喜び、ますます名古屋の中に埋没していった。

でも、ある時、ちょっと名古屋から転勤してよ、と会社から言われ、具体的には女性向けの企画をやれという指示が出て、私は慣れ親しんだ土地を離れることになった。

そして、普通の女性たちに、名古屋で受けた話題を振っても、ごく一部のネット先住民的感性を持つ人以外には刺さらない、という現実に直面した。あたりまえだが、世界は名古屋ではなかったのだ。

日本はいつまで世界の名古屋でいなければならないんだろう、とたまに寂しく思うのは、アニメやゲーム、秋葉原カルチャー的な「イロモノ感」のある分野でしか、世界のカルチャーシーンでプレゼンスを発揮できない事実を目の当たりにした時である。もっと普通の、世界中の人がイロモノでなく大好きな分野で、ちゃんと愛され数字を取れる日本だってあるだろうにと思うが、クールジャパンなどを見ると自らその名古屋的ポジションに立候補してしまっている気もする。デジタル機器や車などにおける日本の立ち位置は、スタンダードに世界で勝負しているのに、カルチャー分野ではどうしてそういった挑戦ができないのか。

その寂しさは、ネットメディアの分野においても同じように時おり私を襲う。なぜ、普通に雑誌やテレビで数字を集める話題が、ネットだとうまくいかないのか。なぜ過剰にインターネット的でなければならないのか。普通の主婦の友達に話しても全く通じないマニアックな話題しか数字が取れないインターネットメディアのままでいいのか。もっと広い海に出たくはないか? もはや黎明期とはいえないネットなのに、全然変わってないじゃないのよ。

Cook Padや@Cosmeは、B級を狙わないでちゃんと成功している女性メディアなので、とても尊敬している。でも、両者はメディアといえど、やっぱり実用的で、ある意味でツールである。従来の雑誌や新聞が担っていた、特に必要なものではなくても何となく見てしまうような、「暇つぶし分野」の、メディアらしいメディア分野での勝者ではない。

旧来メディアが担っている、「動機を作る」「特に欲しいと思っていなかったものを欲しいと気づかせる」ような提案のある、「暇つぶし」市場におけるサイトで、ちゃんと成功している女性サイトはないのではないだろうか。われわれネットメディアはいつまで変わり者の分野に甘んじていなくてはならないのか。それが何だか悔しいのである。

すごく難しいテーマだし、成功率も(そして収益予測も)厳しそうな分野だけど、なんか負けたくない、と思って考え続けている。特に、スマホの普及で、ネット先住民のような特殊層が薄まりつつある今において、可能性も高まってきていると思うのだ。

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