近うて遠きもの
どんなことをnoteしようかと考えていたとき、「近うて遠きもの」という清少納言の言葉にピン!ときた。
自分がそもそもnoteを始めることに決めたのは、日々「自分が体感した良い事」、つまりそれは旅行先の事であったり読んだ本の事であったり偶然目にしたものであったり、それを忘れっぽい自分の「記録」として利用する側面と、他人へ「共有」できる側面を兼ねているから。
①単に写真をあげるだけではなくて、「ストーリー」として残したい
②自分の知り合いの範疇を越えて世の中の色んな価値観の人に「共有」したい。その反応を「知りたい」
③そしてもちろん普段知り得ない人達の投稿を自分自身も「知りたい」
「自分が体感した良い事」
しかし「自分が体感した良い事」って投稿の軸としては弱いかもしれない。自分の投稿を他人が見てくれない限り「共有」はできず、フォロワーがいない限り単に「記録」としての投稿になるのだけど、自己満足として決めておきたい。
そんなとき出会った言葉が清少納言の「近うて遠きもの」
「近うて遠きもの」
清少納言が枕草子で書いた「近うて遠きもの」。そのひとつが京都の鞍馬にあるつづらおりという道(何重にも折れ曲がった坂道)。京都へ出掛けたとき見かけて知った言葉。
自分になぜピンときたかというと、自分が体感して良いと思うことはたいてい、「近うて遠いもの」を想っているから。
この場所はかつてどんな人が過ごしたのだろう?この人の背景にはどんなものが隠れているんだろう?
魅力的な「結果の向こうに隠れた原因」をあれやこれや想い描いて胸がわくわくしたりそわそわしたり。
そんなとき私は「体感して良かった」と思う。