思い出した頃にあるジーンズを履くことで、自分の体の変化を知る話、を書くつもりだった話。

私は体重計を持っていない。
だから、自分の今の正確な体重はわからない。
ついでに体の周囲をはかることもしない。
私は自分のからだを見せる仕事をしていないし、基本的に体に関する数字を知る必要がないと思っているからだ。

その代わり、思いだした頃にあるジーンズを履く。
ジーンズを履いて、自分のからだの変化を知る。

今日、ひさしぶりに履いてみた。
前はちょっときつかったけど、今はすんなり入る。
太ももの布にも気持ち余裕がある。
あ、私瘦せたんだ。
太もものとこに余裕ができるくらいには、痩せたみたいだ。
そういう加減。
そういう加減で知れればいい。
私にとって、買った服が変わりなく、魅力的に着れることが一番大事。
そこに今のところ正確な数字は必要がないと思っている。(ただの面倒くさがりとも言えてしまう)

そういう加減、みたいなものがけっこうすきだ。
いい加減ってあまりいい言葉じゃなく聞こえるけど、加減がいいってことは
まあまあ適切だということで、このまあまあ適切ってのはいい。
”適切”じゃあ範囲は狭いけど、”まあまあ”がつくとちょっと気が楽になる。

でも自分がまあまあ適切だと思っている距離感は、他人にとっては近すぎたり、遠すぎたりする。
私とあなたはここまで。
僕と君はあそこらへんまで。

何をもって距離を測るの。
と、言われたら、本能だと思う。
私の場合、本能的にもっと近づきたいとか、本能的にいやだ!と感じることで測っている節がある。
(そういえば他の人の測り方を聞いたことがないかも)

ただ困ったことに、本能的にいやだ!と感じると、しばらくそれが拭えなくなる。
近付かれたくないのに、近づいてこられた時なんかがそうで、
境界線を勝手に踏み越えて近づいてくる。
あまつさえ同化しようとしてくる。
ああ、血の気がひいていく。

そういう時、相手をめためたに傷つける言葉が腹の底から昇ってきて、口から出ていきそうになる。
理性が一生懸命、口を塞ぐ。
でも思う。
薄い衣を丁寧にはぐふりをして、突然心臓を一突きした時、人間はどうなってしまうんだろう。
相手への心配から発されるわけじゃない言葉が、自分の扱う言葉だった時をどれだけの人間が知っていて、どれだけの人間が制御しているんだろう?
制御された言葉は、どこに仕舞われるんだろう?

近付かれたくないと思う時、そこにはちゃんと原因がある。

自分のことをどうか嫌わないで、どうか受け入れて、なんて考えが見えるから。
そのずるさを気づいてないふりをして思いやりの皮を被って近づいてくるから。
100%自分本位なのに自分本位じゃないと言い張るから、
不気味なんだ。
それを可愛いと思えるような精神構造を22の私は持ち合わせていない。

嫌う時は嫌うし、受け入れられないものは受け入れられない。
まあまあがいい。
少なくともお互いが不快にならないまあまあ。
思い出した頃に顔をあわせたら、また変わるかもしれない、うん。


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