消費が寂しい話/監督今成夢人を待っちゃうよねの巻


プロレスを好きだと言ってますが、アーカイブやYouTube見る体力がどうにも湧いて来ません。

余程観ておきたい試合以外は好きなカメラマンさんの写真をSNSで見てホォ〜と思うに留まっています。伝わる写真を撮れるというのもまたプロレス愛だと思うし、好きな人が撮る好きな人に勝るものは無いので、いつもありがとうございますの気持ちです。それはさておき。話を戻します。

全試合のアーカイブや、見出しの派手すぎるYouTube、意図せぬ切り抜きを見る体力がない、疲れてしまうのはどうしてかなと悩んだ末に少し見えてきたことがあって。

アーカイブ等には発信する側(映像を産んだ人)と受け手(ワシ)のキャッチボールが少ないこと、考える幅を与えられていないことが寂しいからなのかな、と思い始めていました。

試合を見に行って得るものは視覚的情報以外に溢れてるから試合内容に中身がないとかを言いたいのではなくて、アーカイブとかYouTubeとか、同じプロレスの中のコンテンツであっても、“映像”になったからには“映像”表現である意義が欲しくなってしまうことに気づきました。

映像から出力される熱量を受け取って私の生きる何かに繋げたいし、思考する楽しみがほしい。おかげで明日もまた頑張れますみたいな輝かしいメンタルにはなかなか成れないものの、今日生きてよかったと思える映像との出会いは必要だし、それは消費されるものやストリーミングにはなかなか求め難いなと思います。

例えば煽りVTRと呼ばれる試合前に流れる映像の作られ方には特に敏感になってしまっていて。
当日に至るまでの試合の大技だけ、実況の声が大きくなる部分だけを繋いだものには、申し訳ないけれど編集者が表現・創作をしていない、または何らかの理由で叶わなかったのだと感じてしまいます。大会で流す映像に意義がある必要が業界には無いのかもしれないけれど、映像一個で試合の意義や選手の見え方をひっくり返すぐらいの熱量が映像の見せ方にあっていいと思うし、編集者がそのつくり込みや表現に使う時間、体力は確保されて然るべきだと思います。

つくってる人の出来る事やりたい事、絶対こんなもんじゃないしもっと魅せれる人なのに、表現の場より業務の工数が多すぎるのかなあと思うことが沢山起きていることが寂しいです。ここでようやくお名前を出しますが、ほんとは今成夢人作品にもっと心を持っていかれたいのですが、それがなかなか叶わないことがどうにも寂しく思えてしまいます。

もちろん誰が悪いとかではなく、煽りVTRに限らず映像の数を打たないといけなかったり残さないといけない数字があることも承知しています。広告宣伝で得るものが必要なことなのはわかっていますが数があることを良しとすることもまた作り手にとっては功罪だなと思うし、今成さんの手に触れたものが消費されて終わっていいことになっている状況が、なんだか悔しいなあと思ってます。

映像“編集”ができる人、ではなくて映像“表現”のできる人がいることをもっと生かして貰えないもんかなあと思わずにいられないです。
仕事とやりたいことを並列で考えてはいけないのかもしれないけれど、この先もっと監督今成夢人が活かされる場が、今成表現大暴れの機会が増えてほしいなあと思いながら渋谷新宿方面に手を合わせておきます。


言いたいことの要約は夢ちゃんラジオのコメント欄に投稿したことが全てですが、わたしが映像に対して敏感になっていること、貪欲になっていることのトリガーが今成さんであることを記録しておきたかったのでした。

プロレス好きになったら映像表現とその消費を気にするようになった、これもまたバタフライエフェクトなのかもね。

おわり🎥

私がニコニコで暮らせます。