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腐女子の心理学

今日までがゴールデンウィークだと、昨日の夜に知りました。さらばゴールデンウィーク。でも、今日は久しぶりに相棒(楽器)の相手をして両者ともに満足なはず。そして今回のnoteはいつもよりとても長いです。

この本について

現在時間を持て余しているので、午後はほとんど読書をしていました。『腐女子の心理学 彼女たちはなぜBL(男性同性愛)を好むのか?』(山岡2018)というタイトルの本です。

これは半年以上前に購入してずっと積読に埋もれていたのですが、この度厳正なる抽選によって読了対象になりました。おめでとうございます。

購入した動機は主に二点ありました。一点目は、中学生で初めて腐女子という言葉を耳にしたときの衝撃を鮮明に覚えていたため。なぜ自分のことを腐っているなんて言うのか、ずっと心にひっかかっていました。二点目は、もともとジェンダーやセクシュアリティに関する考察に興味があったため。決め手は、陳列棚にあったこの本と目が合ったことでした。

なので、腐女子たちはなぜBLを趣向するのか、BLに何を求めているのか、などを知って彼彼女らのリアルを考える入口を見つけることを期待していました。

本書では、社会全体の集団における腐女子群という存在に対する社会が抱く心理、または腐女子群が抱く心理、それらの心理が実際の行動へどのように影響し、生活や暮らしを形作っているのか、が11個の研究から解き明かされていきます。

研究手法としては量的調査(アンケート調査)を大学生の男女を対象に行っていて、そこで得られたデータと過去の研究内容から分析・考察しています。論文みたいな構成と文章でした。(本書では「腐女子」を「BL作品やBL妄想を好む人物」と定義していますが、著者は見た目と心が女性の人物を主な対象者として論じているように感じます。)

根強い社会構造の呪い

この本を読むきっかけとなった「腐女子」という言葉との出会いで抱いた、なぜ自分が腐っているというような表現をするのかという疑問に対する、ざっくりとした回答を複数得ました。そのうちの一例として、以下のような見解があります。

 腐女子は自分のことを「正常とされる対象から逸脱したものに性的欲求を向けている」と認識している。
 「正常」とは、現代の日本における性規範のことで、性的娯楽享受の許容度のことを指す。そして、これには男女の非対称性が存在している。男性は娯楽としてポルノグラフィティや性的行為を楽しむことが許容されており、性風俗産業が社会の中に組み込まれている。
 一方、性を命をもたらす神聖なものにするためには、「愛」という概念が必要である。歴史的に社会を作ってきた男性たちは、自分たちが娯楽と子孫の繁栄を両立するために、男性は女性に忠誠を求めた。
 そして、男女の権力格差を作り出して社会を独占し、女性を男性に従属させる存在にした。この価値観が現在の「正常」を形作っている。
 そのため、「異性愛が正常でそれ以外は逸脱している」「性的娯楽を得る女性は異常者だ」というような価値概念が、現代の人々にも根付いている。腐女子が自らを腐っていると表現するのは、こうした性規範が今もなお社会を支配しているためである。

このような内容は読む前から何となく想像していましたが、データに基づいた事実でハッキリ示されると、やはりインパクトが大きいです。

過去の権力構造が、こんな細部にまで及んでいる(かもしれない)ことに改めて驚きました。腐女子の人たちのみならずすべての人たちに、自らの好みに対して「他人から隠さなければならない」と思わせてしまうような社会には、相変わらず辟易します。

趣味の社会的価値なんて考えたことがなかった

腐女子の群像を明らかにするために、社会的ステレオタイプに基づく偏見についても述べられています。社会的ステレオタイプとは、「特定の集団の属しているものは特定の共通する性質を持つという、その社会に広く普及した極めて単純化された概念」のこと。ガリ勉は皆眼鏡をかけている、みたいなものです(適当)。

人間には自己高揚欲求があって、できれば自分自身を高く評価したいと思っているらしいです。自分が所属している集団と別の集団を比較するときにも、自分の集団を高く評価したい現象が生じるとのことです。

そして、集団たちは社会的アイデンティティ(みんながもつ価値観)に基づいて評価されるので、自分の集団と近い価値観を共有する集団とそうでない集団とで、社会的アイデンティティの強弱にグラデーションが付きます。ここで異質な人間の集団と認識される集団に、社会的ステレオタイプが形成される、というわけです。

このステレオタイプが否定的な感情と結びつくと、偏見になります。偏見を生み出すことで、集団の評価を相対的に高めることができます。

また、ステレオタイプにはもう一つ、自己の態度や行動の正当化という機能があるとのことです。誰かを否定することをみんながしていれば、自分も否定していいのだ(自分は正しい)、と認識できます。そして、その否定の対象は「少数派」である場合が多いのです。

オタクや腐女子の趣味活動に対して、社会的に高く評価されない趣味であるというステレオタイプが存在します(本書内の研究にて)。そして、現代の日本社会においてこれは「少数派」に該当するのが事実です。

スポーツや芸術活動などは人に感動を与える生産的な趣味であり、自分の技能を向上させるので社会的価値が高い。オタクや腐女子の活動はコンテンツを消費するだけで、一個人において生産性が低いため社会的価値が低い。という具合です。

この考察を読むまで、自分の趣味の社会的価値なんて気にしたこともありませんでした。趣味とは、自分が好きなようにふるまう世界だと思っていたので、そこに「社会」における「他人の評価」が付きまとうなんて、とガッカリします。

「個性を大切に」とか「好きなことで生きていく」
なんて言葉が流布していますが、己の意思にはたらく得体のしれない力が蔓延していると思うと、すこしビビってしまいます。

が、そんな力を跳ね除けられる力を付けることが、私にできる対抗手段なのだと思います。そしてこの力を公使して初めて、自由が手に入るのかもしれないですね…。

現代社会に対するアンチ精神がどんどん膨らんでいくなぎさなのでした。

後述:とても疲れた。これで3回分ぐらいの体力使ったな。途中でご飯を挟むべきでもなかった。


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