Q.5 ホールデンがピーナッツの殻に足をとられるのはなぜか?
(J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解のつづきです)
寮を飛び出す際にホールデンは、「どっかの馬鹿が階段じゅうにピーナッツの殻をばらまいていたせいで、あやうく首の骨を折っちまうところだったよ」(92)という。
これは、この時点で彼がまだ、精神的な豊饒を育てられる豆=種を持たない、殻だけの状態、空っぽの青年だからだろう。
未熟な青年の不安定な精神状態が、おぼつかない足元に象徴されるのも、〈首の骨を折る〉ことで象徴的に死に、再生へ導かれるのもまた、神話の典型的なパターン。サリンジャー作品の登場人物たちが、しばしば脚・足を病み、精神的な危機に際して首元を気にする理由はここにある(詳細後述)。 これは麦の穂が実って垂れると、刈り取られるイメージにもつながっているだろう。
『キャッチャー』後半では、アントリーニ先生宅に「ピーナッツを盛った皿がいくつもあった」(308)と書かれている。前半のピーナッツの殻が、ホールデンを転ばせる試練の象徴なら、後半のピーナッツは、アントリーニ先生がホールデンに授ける一連のアドバイスが、ホールデンの心に種として植えられ、やがて豊饒をもたらすことを表しているといえる。
前半のピーナッツの殻と、後半のピーナッツを盛った皿、という対比表現により、寮を飛び出すときには空っぽだったホールデンの心の中に、一連の試練をくぐりぬけたあとで、未来の精神的な豊饒と再生を予感させる、新たな種が蒔かれていることが示されているわけだ。
これは、『フラニーとズーイ』の序文にある「ライマ・ビーン」という言葉にもつながっている(続きは『F&Z』読解にて)。
古くから伝わる、大地の豊饒を願った神話の型を用いて、荒廃した精神の再生と豊饒を描くのは、『聖書』からシェイクスピア、エリオットへと受け継がれてきた文学の伝統。
『キャッチャー』をはじめとするサリンジャー作品には、シェイクスピア作品から引用されたモチーフ(遡ればシェイクスピアもまた神話から引用しているわけだが)が複数散りばめられており、そのことは作中でホールデンが『ロミオとジュリエット』(188)『ハムレット』(198)に触れることでも示されている。
例えば、『リア王』では、娘たちに裏切られ、権力を失い、空っぽになったリアが「豆を抜かれたサヤエンドウThat’s a shelled peascod.」(松岡和子訳、ちくま文庫_55)と表現されるなど、シェイクスピア作品にも、豆と豊饒神話を結び付けた表現は随所にみられる。サリンジャーはこれらの作品から影響を受け、自作に同様のテーマを描きこもうとしているわけだ。