なにも始まらなかった恋の話
エスカレーターを登る覚束ない子供の足取りを見つめながら、私はどうしてこうなってしまったんだろうと、ぼんやり思った。
始まりはフィールドワークの授業だった。
隣に座ってプリントを回してくれた彼に私は一目惚れをした。
顔はきっとかっこよかった。けれど、その時私は右目のたった端っこに彼を映していたに過ぎなくて、ぼんやり映る彼の存在に心を奪われた。本当のところ、顔なんて見えてなかったかもしれない。
それから毎週、連絡先を聞けずに落ち込みながら帰った。話しかけるきっかけなんてこれっぽっちもなくて、無論連絡先を聞く用も無い。
彼は蛍光ペンを使う時、定規を使う。服や小物はきっと緑色が好きだ。緊張すると早口になって地元の方言が出る。
そんな些細な彼のパーツをひとつひとつコレクションするしかなかった。
はじめて食事に出かけたのはそれから3ヶ月後。
雨の日、二人でひとつの傘を使って、お店までの道を足早に歩いた。なんでもない話をしながら、雨の音から彼の声を拾いあげるので精一杯だった。
美味しいものを一緒に美味しいと言いながら食べて、お互いの子供の頃の話、彼の将来の夢について、どうして今ここにいるのか、そんな話を確かにしたのだけれど、彼は覚えているのだろうか。
あのお店は、今はもう名前を変えて、違う料理を出している。付き合ってもない二人が初めて食事に行くには、とてもそれらしすぎて余りある店だった。
少しして、彼に彼女がいることを知った。
確かなことは知らないけれど、彼女はきっと素敵な人だろうと思った。素敵な彼が選んだ人だから。
彼は私のあげた筆箱を友達の証として使い続けた。
それから暫く、教えてもらった本はなんでも読んだ。アニメも全部見た。なにを考えてなにを感じて生きているのか知りたくて。
なにより、それらを摂取している間は彼を感じることができた。どれもが全部面白くて、諦めるはずがどんどん好きになっていった。
初めて彼が食事に誘ってくれたのは卒業式前だった。あの時彼はなにを思って誘ってくれたのだろうか。彼女とは別れたのだろうか。聞けない疑問が募っていく。
大学近くのイタリアン、パテの美味しいスペインバル。クリスマス前にはそれっぽいデートスポットにも出かけた。
論文を期限より早く書き上げて、時間を作ってくれた。あの日、世界で一番の幸せだったのは間違いなく私だった。彼が買ってくれたサンタは、いまでも私の部屋で年中クリスマスをしている。
側から見れば付き合っているみたいなのに、私たちは付き合っていなかった。彼女とどうなったのかも確かめないまま、二人の時間だけを見ていた。
いまはもう、連絡も取らない。
私は私の人生を生きていて、彼は彼の人生を生きている。この先きっと、交わることはなく、重なることもない。
私は今あの頃の恋心を探して、別の男の元に向かっている。
楽しみじゃないデートなんてデートといえるのだろうか。探して見つける恋なんて、存在するのだろうか。
あの時好きと伝えていたら、今見える世界は少しでも変わっていたのだろうか。
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