雀の埋葬
外出先から帰ると、玄関前でカラスが鳴いていた。
その視線の先には、死にかけの雀がいた。
くちばしをパクパクさせて、地べたにぐったり横たわっていた。まぶたはほとんど閉じられていた。
私が来なければ、カラスのご飯になっていたのだろう。雀の前に立ち、最期を見届けた。すぐに雀は動かなくなった。カラスは人の気配を嫌がり、飛び立っていった。
急いで自宅にビニール袋を取りに戻った。埋葬しなくては、と思った。
雀を袋に包み、持ち上げる。軽かった。ビニール越しでも毛が柔らかい。まだ死後硬直していないために、雀の首が私の指に寄りかかる。
温かかった。ついさっきまで生きていたものだった。
どこに埋めるか迷ったが、近くの川に決めた。川にはいつも雀がいた。同種族のそばがいいだろう、と思った。
川に向かいながら手のひらの雀を見て、数日前のことを思い出した。弱ったカナブンが道端でひっくり返っていた。あの時、私は何もしなかった。このまま踏まれませんように、と祈って通り過ぎただけだった。
数週間前、雨上がりの晴れた朝の川沿いを歩いていると、湿った地面に小さなナメクジがたくさんいた。道を渡ろうとしているのだろう。でも、川沿いはジョギングのスポットだ。たくさんのナメクジが踏まれて死んでいた。私はかわいそうに、と思った。せめて自分だけは踏まないようにと気をつけながら家に帰った。
隣で私の様子を見ていた母は、「あなたは優しいわね」と言った。
それは大きな間違いだった。
カラスはご飯を失っているし、雀は死んでいるから何も感じることはない。私が埋葬しようがしまいが肉は腐り、いずれ還っていく。優しいとすれば、それは自分自身に対してだ。自己満足とも言う。
私は家でクモを見かけても殺さない。せいぜい手で持って外に出すくらいだ。でもゴキブリは違う。玄関とリビングにそれぞれゴキジェットを置いて、見つけ次第すぐに殺せるようにしている。冷静に、効率よく。
手のひらの雀は、私が命を選別していることを思い出させた。そこには、卑怯で自分勝手な私がいた。
川の土手の木の近くに雀を埋めた。
母は、お気に入りのオシャレな傘を汚しながら懸命に土を掘っていた。上手く掘れないところは素手で掘った。私はその穴に雀を置き、ビニール越しの手のひらで土を被せた。
母は昔飼っていたインコを思いながら少し潤んでいた。私の瞳は涙で濡れる気配すらなかった。悲しむ権利などないような気がした。手に生温かい感触だけが残っていた。
あの時、雀の前を素通りしていたらよかっただろうか。
その時は考えもしなかったことだった。それをしたら自分じゃなくなるような、そんな気がした。自分のことがまた少し嫌いになった。
川沿いを歩いていると、雀が一匹いた。今までは目にもとめていなかった。立ち止まって見ていると、雀はすぐに飛び立っていなくなった。
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