明日なんて来なければいいー眼球とミサイル
残業終わりにがらんとした電車に揺られながら、窓越しに街並みを眺める。まばらに明かりのついたマンション、家々。思考がぼやける。駅に近づくと明かりが増えていく。
退屈な風景、見るようなものは何もない。
明かりさえなければ、世界が滅んだものと思えたかもしれない。だめだ。電車が動いている。車内放送が聞こえる。
駅で停車する。また動き出す。何度も繰り返す。各駅停車なんて鬱陶しいだけなのに、僕はいつもそれに乗っている。
こういう時には、自分のことを「生きた死体」だと思う。
いや、それは正しくない。
「死体」というとまるで以前は生きていたかのようだし、「生きた」というと少しでも今は生きているように見えるからだめだ。
現代人を「おしまいの人間」と言った人がいる。この言葉を聞くと落ち着く。自分のことだと思える。
「おしまいの物体」だ。それが自分にはふさわしい。
私がもっと幼かったころ、嫌なことがあるとミサイルが落ちてきて何もかもなくなればいいのに、と思った。
今も似たように思うけれど、少し違う。
「わたしが」ミサイルを落としたいと思う。リセットボタンは自分で押してみたい。轟音と共に全てに価値が無くなる。
乗り換えると人が増えてくる。今度は急行に乗る。ミサイルのことを考える。
このまま世界の果てまで行けないものだろうか。
どこにも着かず、次第に身体がマネキンになってしまって、頭がぼーっとしてもう何も考えられなくなる。想像するとすこし心が満たされた。
どうして世界はこんなふうでないのか。マネキンに目はいらない。北極の駱駝、円形の道路、蜘蛛だけの街、見れないものだろうか。あの鳥を叩きつけられれば、夜空に落下していければ、どれだけよかっただろう。
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