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サービス精神が充満した世界では、ひとは想像力を失ってしまわないだろうか。

わたしは、まがりなりにも妄想が好きな人間なので、アートや歴史の部分的なところに興味を持つと妄想を働かせたり、調べたりしながら勝手にこうだったんじゃなかろうか…みたいな考察まがいなことをはじめることがある。

ものづくりや企画を考えることが好きだったり、仕事だったりするので、あれこれ想像しながら企画を組み立てることもしばしば。
当然、そのもののコンセプトやターゲット、意図なんかも考える。

わかりやすく考える。(あくまで自分なりに…なわけですが)

だけど、それに最近は少々疑問に思うこともあるのだ。

提供する側のヒト、ちょっと親切すぎじゃない?

といっても、ちゃんと作品コンセプトなどの最低限の説明は必要だとしても、『何のためにこれを作ったのか、企画したのか』
どこまで説明をするべきだろうか…。

できれば、含みが欲しい。考える、予想する、そんな余白を残しておいて欲しいと思うのは、きっとわたしだけではないはず…。(たぶんね。これも予想なもんで)

そのものの良さは、訴えるものをストレートに伝える強さだけではなく、何か感じ取れそうな『?』の部分、『闇』が見え隠れするようなところがとんでもない魅力的で、セクシーな部分じゃないだろうか…と思ってしまう。(わたしはそーゆうのを醸し出すのが得意でないので、そーゆうのを出せる人は、ものすごく羨ましいなぁと思う)

そう思うと、最近のモノ、コト、に至っては、ものすごーく『至れり尽くせり精神』を生産者や作り手から感じることが増えた。

そんなにいるかな…。

知りたい人にとっては、本当にそのサービス精神はありがたいことだけど、わたしはそれが少し親切すぎる気がして、すごく気になるのだ。

かくいう自分は、作ったものになかなかヘヘン!と自慢できない性格なくせして思うのは、作り手にもっとツンとしていて欲しいと思うのです。

それは、愛想が悪いという意味ではなくって、企画の意図をすべて話すのではなく、ここから先は『ご想像にお任せします』みたいな、委ねてもらえる部分があったなら、きっといつまでもあれは何だったんだろうか…としばらく引きずるなと思うの。

きっとこういうことを考えて作ったんだろう。
とか、
この時代にもろ影響受けてますやん!
とか、
そういう空白の部分を想像させて欲しいなと毎度思う。答えが出てるものにそんなに関心が持てないのは、完結してしまって続きを想像するのをやめてしまうからかもな、なんて。

サービスにおける質の向上を言われている昨今ですが、決して足すだけがサービスではないなと思うのです。引き算のほうが良い場合もきっとある。

その引き算が難しいのだとも思うのだけど、そういう足し引きの計算も含めて企画を考えていかないとなぁ、と思った。受動的なサービスよりも能動的になれるサービスを。

この記事の答えをしばらく引きずってみようと思います。

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