学会ライトニングトークのための雑記(セルフ第二中間報告)

きっかけ

思えばグラフィックデザイナーという存在、およびグラフィックデザインという概念がどうしようもなく好きで、卒研は絶対そういうテーマが良いなと入学した頃(というか中2)から思っていました。

グラフィックデザインって、文字(書体、組など含め)によるコミュニケーションが必須だし、写真(テーマ、キャスティング、トリミングの技術など含め)によるメッセージも必須だし...みたいなところで範囲がバカ広の領域なのですが、卒研は図形(graphicsなのかfigureなのかformなのか...)にクローズしようと思いました。できれば印刷も...。

実際作ったりコンペ出したりして思ったのが、言葉に引っ張られる!ということです。考えるにしても言葉スタートだし、意味が通るかどうかとかつまんないこと考えてしまうし、そもそも自分自身レトリックとか言葉遊びが好きだし。そもそもデザインの機能として、言葉ありきなところは否めないなあと思いますが。

もっと壁画とかの時代に戻って、形を刻みつけたくって、象形文字の「象形」の部分だけ摘出する、みたいなことをやりたいんですが、思考が言葉に支配されすぎていることに気付いてしまった感じです。これらが現状?きっかけ?の具合です。

テーマ決め

これまでを振り返ると、一時は絵本というメディアに興味を持ったり、ステッカーを貼る行為に興味を持ったり、部屋や持ち物とデザインの関係性に興味を持ったり、色んなテーマについて考えました。

でも、もっと根っこの、興味の源泉をテーマに据えたい!とあれこれ考えているうちに「見立て」だったり「抽象化」というところに落ち着きました(落ち着いてはいないかも)。

テーマを決めた時に小林一毅、石塚俊、guccimaze、ジャンハンスアルプ(敬称略)とかがめちゃくちゃ好きだったのも一つの要因です。アウトプットはただのカタチなのに、メッセージがあって、でも色々なものに見立てることもできる。またそれを広い心でおおらかに受け入れているというか、むしろ推奨している感じがあって、すごく親しみやすいなあ〜と。「こう観なきゃだめ」って言われたら面白くないというか。最近zine作った時便宜上それぞれのページにタイトル付けたけど、実際いらないかなみたいな。

(美術鑑賞の時とかに「こういう歴史があって、こういう見方があるよ」って言われるのはむしろ歓迎で、見方を限定されてる訳ではなく、むしろ知らない世界を広げることができるから。「こう観なきゃだめ!」って言われるのはうるせー!ってなるけれど。作品と受け手の間にある対話や妄想の広がりを尊重したいのだと思います。)

昔から一ノ瀬雄太、川尻竜一、田中一光(敬称略)など、電博あたりのアートディレクターっぽいのギラギラした人よりも「ザ・グラフィックデザイナー」というか、手動かしまくってパッキパキの丸三角四角だけで意味を完成させられる人たちが好きだったのも関係してるかなと思います。

アナログっぽい人だと三重野龍や加瀬透や鈴木哲生のグラフィックもめちゃくちゃゾクゾクするんですけど、上記の通りでいろんな見方ができるし。線がいちいちすごいし。

作り手と受け手の話

話は変わりますが、JAGDA、TDC、ADCなどのデザインアワードで毎年毎年大御所のおじいちゃんが名前を連ねているのを見ると、なんとなく気持ち悪い。組織のことはわからないけど「よっ!先生!」みたいな内輪の雰囲気を感じる。

永井さんの「LIFE」のポスターとか、仲條さんの資生堂パーラーとかめっちゃ好きだし、めちゃくちゃカッコいいんだけど、それって作り手の中でグルグル評価し合っているだけで、もっとあけすけに、受け手がデザインとの対話に参加できるようなフレームがあればいいなと思いました。みたいなこと佐藤卓も言ってた気がする。

あとは、バイト先でおばちゃんに将来何になるのって聞かれて「デザイナーになりたいです」って正直に言った時に「かっこいい〜」みたいなお世辞を返された時にも、ものすごく気持ち悪さを感じました。

まあデザイナーかっこいいけど、なんかそうじゃないよみたいな。コールセンターのおばちゃんもかっこいいじゃんみたいな。話し上手とか買い物上手の平行線上にデザイン上手があってもいいじゃないかと。

別に普通の職業じゃんかよ、と思うし、デザイナーは偉い!先生!という風潮がなんとなく感じられなくもない今日この頃です(ネガティブな意味で)。これは今年のJAGDA新人賞の佐々木俊と西川©︎友美が言っていた。

上記のエピソードが作り手と受け手の乖離を感じた瞬間かなと思います、あとは身近な人が「グラフィックデザインわかんない、むずい」とよく言っていたのも印象的でした。

だからこそというか、僕含めデザインを享受する人たちがもっと制作物にのめり込む隙間作りをしたいと思っています。誰の言葉か忘れたけど、「デザインは結果であって作品とは呼ばないっす。成果物とか制作物って呼ぶっす。」みたいな文章を見た時に、すごい腑に落ちました。菊地敦己かな。自分の作ったものをあんまり"作品"とは呼びたくない、みたいなのもそこから来てます。

クライアントワークには責任が生じるけれど、そうじゃなくて自主制作の場合は、自分のグラフィックのことをナンプレぐらいに思って欲しいなあと考えています。作品なんて大それたもんじゃなくて。

(最近youtubeの広告でテンプレから誰でもチラシ作れるよ、みたいなのが流れてきますが、それはちょっと違うんだよな〜って思って、自分自身に矛盾を感じています。このご時世デザイナーって職業も結構危ういな〜とか。)

卒研のねらい

卒研を貫くテーマとして今は「見立て」というキーワードを使っているけれど、元々は「わかりそうな形」という言葉を使っていました。変わっていないのは

・受け手の(デザインを「〜を見る」のではなく「〜と見る」行為に対する)能動的な姿勢を促すためのものづくりをしたい。

・単純な形や抽象的なイメージに、リズムとか響き(カンディンスキーがよく使う言葉です)を加え色々な意味を立ち上がらせることによって、自分なりの見方を発見した際の達成感や気持ち良さや面白さを感じてもらいたい。見立てた〜!みたいな。

・グラフィックの解なんて無限じゃね?という気持ちから、"こう見なきゃいけない"みたいな見えが存在しない変な制作物(グラフィック)を、デカデカと公衆の面前に置いときたい。

という気持ちだと思います。これが学びとか知みたいなものに結実する感じがあまりせず、モヤモヤしたまま10月を迎えてしまいました。

今やってる制作、最終的な展示の妄想としては、制作物の面白さを感じさせつつ、見立てる行為を通じて、受け手に「これは●●かな?」と思わせるきっかけをつくって、(展示自体で明言はしないけれど)いつの間にかデザインの面白さだったり、日常生活に溶け込む見立てのタネに目を配るようになったり、そういう気持ちになってもらうことが最大のゴールだと思っています。

もはや受け手にタイトルすらも委ねたい。それを後ろから見てドキドキしたい。こだわりがないのかとも思いますが、真実はいつもひとつじゃないよ!という"逆コナン"スタンスでいるつもりです。ただ突き放しすぎたら何にも見えずにさようなら、となってしまうので、そこの塩梅を模索するための一年間だったのかなと。あんまり答えは見つからず、あと数ヶ月で終わっちゃうけど...。

もちろんそこの価値観は相対的なかんじで、解釈が唯一な方がベターなデザインもあるべきだとも思います。

そんなモノの見方もうやってるよ!目を配らせてるよ!というデザ人(びと)が大学に多いから、もっとなんだろう、子どもとか、お父さんお母さんとかに見て欲しいかもしれない。「ふ〜んデザイナーってすごいね〜(棒読み)」で終わらせないグラフィックというか...。私にもできそう、と思わせることが大事なのかもと思ったり...。手触り感というか、身近な雰囲気というか...。

最終的な手法的には、抽象化というより単純化なのかもしれません。単純な形からの方が、色々勝手に改変できるし、受け手の解釈が自由だし。捨象する(削ぎ落としていく)過程を経るとするならば抽象化になるのかもしれないけど。

解釈は自由であるべきで、尊重されるべきで、奪われるべきではない権利だと思っていて、なるだけ受け手の想像の余地を膨らませたいなあって思います。

制作から感じていること

・ドローイングを通して、アナログアウトプットによる身体性のメリットを感じています。再現性が低いことによって唯一感が増すし、精緻な線が引けないからこそ逆にブレが本人の狙っていない意味を生み出したり。手描きの方がおもしろいもの作れるかも。


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