1on1コーチングを1年受けて気付いた、私が生きづらかった理由|発達障害と診断されたいまのお気持ち
過去のプログラミングのせいで「それはなぜか?」という問いから逃げ続けた
「それはなぜですか?」
この世で一番嫌いな問いだった。
この言葉が嫌いだ、と気づいたのは、学校に行かなくなってからだ。
ことあるごとに親や先生に「それはなぜ?」と聞かれ続けた。(過去に書いたので割愛するが、髪を金髪に染める、学校に行かないなど、当時の私は極端な行動をとっていた。)
理由なんか聞かずにハッキリ怒ればいいのに。合唱コンクールや体育祭に、この髪じゃ出れないんでしょ、先にそれを伝えればいいじゃん。じゃあ、本当のこと(あゆに憧れて)を伝えたら?ママも先生もなんていうの?どっちにしろ怒るし、黒くしろっていうんでしょ。
そういった理由から、「それはなぜ?」と問われている時=責められる予兆だ、黙った方がいい、と脳にプログラミングされてしまったのだった。
「あーもうこの言葉大っ嫌い」と確信したのは就職活動中だ。
就職活動のエントリーシートは対策本、みたいなものを買わずとも、かなりの会社数通ったし、自己分析も何なくできた。それは一種のゲームだったから。
相手が求めている回答を予測して、その作り上げたペルソナに自分を寄せていくー。
ただ、面接であの言葉、
「それはなぜ?」と聞かれるたびに言葉に詰まる。
今思えば、みんな私のことを知ろうと思ってくれているだけなのに。
幼い頃、この言葉の裏には、私に対しての叱責や、批判の念が込められていいるとプログラミングされてしまったがゆえにコミュニケーションにも支障をきたしていたのだった。
生きづらいのは繊細だからだ、と思い込んでいた
幼い頃から、繊細であり敏感だった。
不快感を味わった記憶として色こく残っているのは「幼稚園の制服で義務付けられていたタイツの履き心地」だ。タイツの繊維の隙間から漏れるように入ってくるひんやりとした床の冷たさや、ひざやすねに独特の冷気が当たる感覚。それをダイレクトに素肌で感じられないことが気持ち悪く、着用初日で存在を拒否した。そんな子どもだった。
そして、学校という場所に足を踏み入れてからは不快感は幾度となく私を襲ってくる。教室の時計の音、背後に人の気配を感じつつ文字を書くこと、カーテンから入る光、誰かの服から香るその人の家の独特な匂いーー。
私はそれを繊細で片付けていた。(し、途中から学校へは行かなくなった。)
しかし、大人になってから、それらは雪だるま形式で大きくなり、いつからか「繊細さ」は「生きづらさ」に変わっていった。
なんだか常に生きづらい。みんなが普通にできていることが私にはできないのだ。
社会と迎合できない、思ったことをうまく言葉で伝えることができない、でも誰かからは共感されたいー。そんな自己顕示欲と生きづらさの真ん中で、いつも私は「あーあ、毎日が日めくりカレンダーみたいに早送りできたらなあ」と思いながら、呆然と立ち尽くすしかなかったのだった。
私は自分の心がなにを望んでいるのか、自分がどんな人間なのか何も分かっていなかったのである。というよりも、「正しく」理解出来ていなかった。という方が近いのかも知れない。その結果、私は「生きづらかった」のだった。29年間、本心で生きたことなんて一度もなかったのだ。文字に起こすとその膨大な年月、生きづらさを抱えながら、自分が何を考えているのかもろくに理解しないまま生きていたのだと思うと戦慄する。
コーチングとの出会い
とある事情で私はコーチングに心惹かれるようになった。
しかし、「それはなぜ?」という問いが嫌いすぎる問題のせいで一歩を踏み出せずにいた。(当時の私はコーチングとカウンセリングの違いや、そこで何が行われるのか全く知らなかった。)
また、性格上複数人が存在する中で自分のプライベートな話をすることにとても抵抗があったので、1on1でコーチングを提供してくれる、自分と気の合う人に一発で出会いたい、どうにかならないだろうかと日々悩んでいた。
そこであゆみちゃんの紹介により、aimiさんと出会うこととなる。
マイコーチaimiさんは、誠実で、とてもていねいな人だ。毎日noteを書いているし、その中で俗にいう今っぽい言葉が出てくることはない。洗練されているあれだけのクオリティの文章を毎日リリースすることがどんなことなのか、編集者の私は手にとるようにわかる。
▼aimiさんのnoteはこちら
日々のエッセイに心を打たれた私は、面識ゼロの状態で、「コーチングセッションをお願いしたい、それも1on1で。」という今思うとだいぶ極端で、衝動的なアポの連絡を入れた。
それから一年。私は毎月コーチングセッションを受けている。
結論から言うと、私はもう「それはなぜ?」と聞かれても怖くない。
一年という時間を振り返るには、あまりにもnoteという場所は適さないので、特に私がこの一年、aimiさんのセッションで好きだと感じたことや、未来の自分にすごくタメになったことをハイライト形式でお届けしよう。
あいみさんは自身のコーチングセッションを「旅のように」と形容するのだけれど、私はそれがとっても好きだ。
この一年、ありとあらゆるところを旅した。
過去と今、そういった概念を飛び越える旅をすることもあれば、昔通っていた学校と、現在の会社の最寄り駅、そして自宅を旅することもある。私の場合は、ロサンゼルスに留学したことがあるのでロスと東京、そして母の故郷・沖縄を旅することも。
その一つ一つの原体験が今の私を作り上げていて、コーチングで聞かれなければ忘れていたようなことがきっかけで今の自分のトラウマを生み出していること、もしくはその逆で自分を支えてくれていることに気づいたこともあった。
正直、この一年コーチングを通して旅を続ける中で、行き先がわからず途方に暮れる時もあった。(=何がしたいのか分からない状態)そんな時こそ、コーチングが最大限効果を発揮したように思う。だからあえて、そんなメンタルの時でさえも逃げずに継続的にセッションを受けている。
「あなたは今、日々の生活の中で、自分の心に素直になれる瞬間が1秒でもありますか?」
上司からの評価を下げたくないから、多少無理してでも仕事でパフォーマンスを出さなきゃ。親に怒られたくないからなんとなく「うん」って言っておこう。友達や彼氏に嫌われたくないから自分の意見は引っ込めておこうー。
いつの間にかそんなふうに生きてはいないだろうか?
この問いにすぐイエスを提示できない人は、ひょっとしたらセッションが大きく人生を変えてくれるきっかけをくれるかもしれない。私がそうだったように。
▼aimiさんのコーチングセッションはこちら
以下、余談。
その結果、生きづらさの正体が障害であることに気づいた。
大事なことこそ、Google先生にはお世話にならないと決めている。
餅は餅屋に。という言葉が好きだ。
私自身正式に診断を受けた今思うことは、やはり餅は餅屋で、病院で検査をして本当によかった。
そして、怪我をしたら病院に行くように心も丁寧に扱わないと気づいた時には遅い。
そのケア、予防策の一つとしてコーチングがあるな、と確信している。
コーチングという旅を1年続けた中で、私が行き着いたのは「なんでここにいつも戻ってくるんだろう」だった。この世は修羅、生きづらいー。その気持ちだけは消えなかった。
これもしかして?と思った時には、友人に「ねえ、都内のADHDの名医、出来るだけたくさん教えて」とLINEしていた。
ここからは私個人の見解と医師による助言を元に記すが、ものをなくす、時間を守れない人に対して「ADHDw」という言葉を使う人が増えた気がしている。が、私はものも無くさないし、時間も守れる。
ただその代わりイレギュラー対応ができないのだ。
急な差し込み案件やスケジュール変更に柔軟に対応できない。ありえないくらいイライラしてしまう。
また、私の場合は過集中が特に顕著で、原稿を書いているときは何時間でも向き合ってしまう、やめ時が分からないのだ。
しかし興味のないこと(数字など)は1秒たりとも見つめていられない。アイディアは無限に浮かぶのに実行までに移せない、もしくは人の3倍くらい時間がかかる。
都内に住む私ですら、フィットする主治医を見つけるまで3件の病院をまわり、やっと信頼できるお医者さんが見つかった。
大人の発達障害を診断する上で、12歳ごろまでにすでにこの傾向があったかどうか?が鍵となるのだが、そうなると家族に病院に付き添って証言してもらうか通知表などの「過去の私が発達障害にまつわる行動をとっていたか」の裏付けとなるものを提出する必要があった。母にそのことを告げると、結果激昂し、「発達障害なわけないでしょ、ヤブ医者でしょ、私行かないし協力しないから。」と突っぱねてきた。
コーチングという旅を続けていなければ、母とのコミュニケーションを諦めていたと思う。しかし私には一年分のコーチングでの「私と向き合い続けた経験」がある。
私のお守りは私なのだから、自分を誰よりも大切にしなければいけない。
石があったら避けたいし、できるだけ生きやすいように環境を整えたい。だから私は発達障害かそうでないかについて絶対に結果を知りたかった。
結果、母をなんとか口説きおとすことができ、心理テストやIQテスト、数時間に及ぶカウンセリング、家族の証言、計2ヶ月の通院の上、正式に診断がおりたのだった。
生きづらさの中にも、自分が独自にプログラミングしていた(それはなぜと聞かれると責められていると捉えてしまう問題)ものと、脳のそもそものどうしようもない障害が複雑に絡み合い、私を形成していた。
ここまでくるのに一年の時間を要していたが、コーチングを受けていなければ絶対に辿り着くことはなく、一生「なんで私は…」とうじうじしていたと思うので、一年でわかっただけで幸せなことなのかもしれないと今はそう思っている。
続く。(これだけ書いておいて続くんかい)
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