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今ここにいるまで「いろいろありました」、について


9/28(金)、「コミュニティをつくること、場をつくることを仕事にするには」というテーマで先輩たちとお話しさせてもらいました。


実はちょっとしたデビュー。現職になって、(というか社会人になって)初めてのイベントのスピーカー。

このテーマ、まさに私が転職モヤモヤ期に模索していたことで。
たぶん私以外にもこういう想いを持っている人ってきっといるんちゃうかなと思っていて、今回は少しでもそういう人のヒントになればいいなということで、「みやのゆうこの場合」という一事例を共有したかった。

とはいえ15分では「いろいろあってこうなりました」という部分が多かったから、どういう道を歩いてきたのか、ちゃんと今、振り返りの意味も込めて書いてみようと思います。
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もともと、私は将来英会話の先生になりたかった。

小学校4年生の時から習い始めた英会話教室の先生に憧れて、あんな先生になりたい!!って思ってた。ミコという愛称で呼んでいたんやけど、ミコってすごくいきいきしていて、かっこよかったんよね。一度普通に会社に就職して、お金を貯めて、そこからアメリカに単身弾丸で行っちゃって、各州に最低一人は友達を作る!ってアメリカ横断の旅をしたり。ハロウィンとかクリスマスにミコの友達の外国人が遊びにきてくれて、世界中に友達がいるミコってすごいかっこいい!!って。年齢不詳やけど、たぶんお母さんとおばあちゃんの間くらいの世代なんかな。
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ミコの英語レッスンそのものも楽しかったけど、何より英語が話せれば、日本語を話す人だけじゃなくて、もっと世界中の人とおしゃべりができて、知らない世界が知れて、それってすごくワクワクする!って思った。初めて英語でミコの友達と話して、ちゃんと意思疎通ができたときの嬉しさといったら!
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一方で、中学から学校の授業として英語が始まった時、これまで知っていたミコの教室での「英語」と学校「英語」の違いにびっくりした。同級生が、英語嫌いって言うのを聞くたび、「なんでこんなに楽しくてワクワクできるための英語やのに、その世界を知る前にシャットアウトしてしまうんやろう」って悔しくて、私の感じた心の弾む感じをもっとたくさんの人に伝えたいなという気持ちが大きくなってた。
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そんなこんなで、英語系の大学に進学したいと思っていて、カルディーとか輸入雑貨とかのお店がすごくワクワクして好きやな、ということもあり、大学はいろんな国や地域の文化が学べて、英語をコミュニケーションのツールとして捉える国際文化学部に進学した。大学時代は非英語圏での英語教育(特に小学校での)に興味があって、1年間オーストラリアの西、パースにある大学で交換留学をしながら言語学、教育学について学びつつ、半年はホームステイ、半年はシェアハウスで暮らしたり、ホストマザーの勧めで、パースの日本人学校の英語の授業にボランティアで入らせてもらったりしていた。留学以外の話では、うちの大学にくる留学生と日本人学生とを繋ぐようなイベントを企画したり、日本で生活する上での行政手続きなどをサポートするようなサークルに入っていた。
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今から思えば、大学時代に日本人、外国人問わずいろんな環境や想いを持って活動している人たちに出会えたことが自分の視野とか世界感を広げてくれたと思う。特に留学の1年間に経験したことは自分をすごく成長させてくれた。いい意味で図太くなったと思うし、もともと泥臭い努力家タイプ、負けず嫌いやったけど、それがよりプラスの性質として磨かれたように思う。それ以上に、何より、頭で先に考えてしまってばかりでなかなか行動に移せない性格だった私が、「やってみたら意外となんとかなる」ということに気づけて、実際になんとかできた、という自信が持てたことがすごく大きい。
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そういう大学時代を過ごしてきて、いざ就職活動の時期。もちろん英会話の先生という道は目指す一つの方向やったけど、英語に限らずもっと広い意味での教育に興味が出てきていたから、子どもたちに、学びの機会や興味関心を持つようなきっかけを与えられるようなことがしたいなと思った。小さい時にいろんな世界を知れることは、きっとその人のその後の生き方の幅を広げることになると思っていたし、私自身がミコの英会話教室で感じたような、あの心の弾むような感覚にたくさん出会ってもらえるようなきっかけづくりがしたかった。
でも、いざ就活を進めていくと、あまり第一志望の方面ではうまくいかんくて。学びの機会を増やす、という軸で会社を受けていて、結局最終的には英会話の先生の道と、教育関係のソフトを作るプログラマ、の2つの道が出てきた。
さぁどっちを選ぶ、となった時、小さい時からずっと英会話の先生に憧れていたはずが、このままずっと英語畑で進んでいって本当にいいんやろうか、という不安に襲われた。かといって、プログラマなんて、今まで全く触れてこなかった世界で、(むしろ避けてきたような分野で)周りは経験者ばかりで、仕事としてやっていけるんやろうかと思った。
でも悩んだ末、私が選んだのはプログラマの道。英語以外の要素も、自分の人生の中に取り込みたいと思った。手に職、じゃないけど、自分が作れる、というスキルを身につけられることも魅力かなって。全く未知の世界やけど、やってみんとわからんし、やってみてわかること、見えることもあるやろうと。
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そうして始まったプログラマの道。

知らないことを知るのは楽しいし、達成感もあったけど、正直つらくて、苦しい時間の方が多かったのは事実。負けず嫌いが功を奏してか、同期の中でそこそこテストの成績も良かったらしく、就活の時期から言い続けていたこともあって、狭き門と言われていた自社製品の開発部に配属が決まった。1年目の冬から、ようやく志望していた教育ソフトの開発に携わるようになった。
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でも、なんか違うな、という気持ちは徐々に大きくなっていて。期待されているのに自分の出来なさ具合が悔しくて、しかも私がやりたいのはこういう生き方じゃないのに、なんでこんな辛い想いをしながら頑張らなあかんのやろうって思った。周りの先輩や同期が、本当に開発が好きで、楽しそうやったから、余計に自分の心の温度差とが激しくて耐えられなくなってきて、気づいたら帰りの電車で泣いてることが多くなった。
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このままやと自分が壊れてしまう。そう思い始めて動き出したのが1年目の秋冬。転職活動とかどうしたらいいねん、と思いながら、何となく心に浮かんでた「地域」「人」「繋げる」というようなキーワードでネット検索をしたり、日本仕事百貨のサイトを見たりして。いくつか面接もうけたし、イベントや活動にも参加し始めた。たまたま本屋で、東京のあるカフェをしている店主さんが書かれた本に出会って、共感しまくって、勢いでその方に手紙を出したり、 クリスマスイブに一人東京に行って、その店主さんに会いに行ったりもしたなあ笑。
手探りで進む方向性を探す中で一番ターニングポイントになったのは、地域の課題解決のためのきっかけづくりのツアーに参加したこと。課題解決、というととっつきにくい気がするけど、実際には地域に行って、1泊2日で地元の人と一緒にリノベしたり、お祭りをしたり、その土地や人を知り、興味を持つきっかけづくりの旅だった。
参加者も地元の人も含めて、そこで出会う人たちが多種多様で、それぞれ悩んだりしながら道を進んでいたり、目標に向かって挑戦していたり、すごく魅力的で、また会いたい!という土地、人にたくさん出会えた。こういう生き方もあるんや、という気づき。そして、人と関わる・つながることで生まれる心の変化。実は、就職時に「いきいき生きる人を増やしたい」ということを言い続けていたんやけど、そのための大事な要素が、「人と出会うこと」やと思っていて。ツアーを通して自分の考えるその要素は間違いないって実感できたことが大きかった。ほぼほぼ、自分の経験でしかないけど。
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とにかく、土日にそうして地域を飛びまわって、平日はプログラマをして、という生活をしていた。気づいたら社会人、丸2年。それなりにプログラマ生活にも慣れてきて、仕事のやりがいも感じてはいたし、いっときに比べると生命の危機レベルで転職したいと思っていた状態よりはマシになっていた。それでも、やっぱり土日と平日で自分の表情が違っていたり、心のギャップが大きいことがしんどくて、もしいい縁があれば転職しよう、という気持ちは変わりなかった。ただ、積極的に面接を受けに行ったり、転職サイトを漁ることはやめていた。これや!という働き先がなかなかなくて、もしや仕事として存在しないのでは?と思い始めていたし、なんとなく、私のやりたいことって、自分がいろいろな人たちと出会う中で何か仕事に繋がっていくような気がしていたから。
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そしてとてもありがたいことに、それは実際におこった。

積極的に「転職活動」していた時期に受けていた、神戸にあるKIITOという施設。その面接をしていただいたことがきっかけで、採用には至らなかったにも関わらずその後もお話を聞いてもらったりしていた方がいる。その方も参加すると聞いていた、神戸のU35の人たちがまちに部活動を作るというプロジェクトの活動報告会に、私もふらっと参加した。
その懇親会の場。その方と、いつものように「最近どう?」という話をしていた時、「紹介したい人がいるんだよ」と言っていただいた。そうしてつなげていただいたのが、現職の取締役をしている方だった。その後、何度か一対一でお話しさせていただく機会を作ってもらって、私が進みたいと思っている方向(でもめっちゃもやもやしている話やったと思う)、その方が新しく立ち上げた部署でやろうとしていること、色々とお話させてもらった。そうする中で、「もしよければ一緒に」とお声がけいただいて、本当にありがたいことに、今、私はここにいる。
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当時の私が今の職に転職を決意した最後の一押しになったのは、この言葉やったとおもう。「地域に関わること、人を繋げること、コミュニティをつくることをしたいという想いを持つ人たちが、仕事として働けるような会社を作りたい」。一番はじめに書いたけど、「コミュニティをつくること、場をつくること、を仕事をするには」どうすればいいのか、どこに身をおけばいいのか、自分自身、ずっと探してきたから。
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金曜日のトークイベントでは、転職して4ヶ月目の私がどういう想いを持っているか、という部分のほうを主に話していたけど、そこに至るまでの「いろいろあって」というところが、ここに書いてきたようなことです。

果たして最後まで読んでくれた人が何人いるやろう…という心境やけど、もし少しでも似たもやもやを抱えて過ごしている人がいて、その人のケーススタディーになっていたらいいな。
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実はトークイベントではKINAIYO!で私が感じたことにも少し言及したんやけど、なんとイベントに参加してくれた中にはあの商店街のゲストハウスで働いていた子がいてて、ここでも人の繋がりがどんどんつながっていくことを実感したよ、というプチ感動。来月中に、その子と一度ゆっくり話そう!ということになっています。

私は相変わらずのもやもやキャラやけど、その分それなりに成長していけるような気もしていて、今幸せやなって思います。
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だいぶの長文になってビビる。笑
最後まで読んでくれて、ほんまありがとう。


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