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思惟#7/炒飯で失敗を恐れる

「あれ、おかしいな。そろそろパラっとするはずなんだけど。」

フライパンに卵ご飯を投入してから数分、べちゃべちゃな状態がしばらく続き、フライパンにこびり付き始めたご飯を見て私は次第に焦ってきた。

「卵ご飯に味付けしたのがよくなかったか。このままだと失敗かな。。。」

さらに数分、炒めるも状況は変わらず。

「いよいよやばいか。しかもパラパラになる前にこげてきれないか?!これ!」

炒飯をパラパラにさせるには卵とご飯を混ぜてから炒めるとご飯が卵コーティングによってパラパラになると聞いていたし、これまでも何度かその方法でパラパラにさせてきた自負があった。
その成功体験とは裏腹に、今回は味付けに前日の残りの「ネギ醤油」を予め混ぜたらうまくいかない。

「いや!こげながらもパラパラに近づいてる?!こうなったらこげるのが先か、パラパラが先か!でも今は続けるしかないっ!!」

竈門炭治郎のように一人格闘していた。

ネギ醤油色のこげとパラパラへの道と同時に進行している。

さらに炒めること数分、パラパラしてきたが同時にネギ醤油色もどんどん濃くなってきた。

まあここらへんが限界かなというこげる一歩手前で火を止めた。

結果、いつもよりパラパラは半減、色は濃いがこげた味ではなく、それなりに美味しかった。

私は何度かパラパラさせる成功体験があり、しかもいずれも成功しかなかったので予想外の状況にうろたえた。
これまでの体感時間をはるかに超えて炒めることで、
「状況は一向に良くならないんじゃないか」
「炒め続けたら焦げる」
という不安に駆られていた。
今から思うとさらに「炒飯失敗という実績を作りたくない」という思いが頭の中にあったような気がする。

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「失敗したくない!」という強い思い。
今回はもう少し俯瞰して「今回はネギ醤油が原因ならどうすればよかったか」を考える余裕が欲しかった。
失敗を見つめていたかったが、主観的な思いが強かった。

そもそも私は”失敗慣れ”してないところがある。
小さい頃からの自分を思い返すと
「それなりにまんべんなく達成=成功してきた」。
育った環境が田舎というのもあったが、少し勉強すればテストの点も上から数えるところに位置していたし、スポーツもまあまあできた。
今思うと勉強方法もよくわかってなかった。けど「できる」と評価されたし、それでいいと思っていた。

そのときの自分は「あまり深く考えずに満足」していたように思えてくる。
その自信を貯金にしてこれまで生きてきたところがあるかもしれない。
確かに中学生の時は生徒会長に立候補して落選したし、大学受験も第一志望校を諦めるように担任に言われ、泣いた日もあった。
けど自分にとっては「それなりに満足できる結果」が常にあった。

私は大きな失敗をしたことがない、という経験が「失敗したくない」と思わせているような気がする。失敗の先にどんな恐ろしくて、恥ずかしくて、自分を傷つけることが待っているのか、が分からない。

これは失敗を経験することでしか解を得ないんだと思う。
かといって失敗に飛び込む勇気もない。

うーむ、、、、、と考えて一旦手を止める。

私にできることは、

①多くのチャレンジする
②この先失敗しそうになった時に焦らず、失敗してもいいやというくらいの気持ちで失敗の先を冷静に見つめる

ことかな。

失敗しそうになったら深呼吸して冷静に状況を判断するのが良さそうだ。
むしろ、「失敗の向こう側に行けるチャンスが来た!」を喜ぶべきタイミングと認識したい。
実際はそんな余裕ないかもしれないが頭の片隅に置いておきたいー!

そんなことできるのだろうか。自信ない。
意識付けさせるために、この炒飯投稿を時折見返す必要があるかもしれない。

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