外でお茶を飲むのは贅沢だ

それはそうだろうと思う。家に帰ればコーヒーやお茶はあるしミルクもあって、外で飲むような美味しいお茶が飲めるのだ。それも1杯辺り贅沢しても150円の原価。贅沢しなければ100円なんてしない。設備費人件費が入っていないが、それを言い出すと外でお茶を飲むのと変わらなくなる。

では何故そこまで解っているのに無性に外でお茶を飲みたいのか。

今わかっている理由の一つは、人に入れてもらいたのだ。家では自分で入れる事がほとんど。お湯を沸かし、茶葉を用意し、茶器を用意する。のんびりお茶を楽しんでも、その後それらを片付ける作業が待っている。

そういった事まで含めてお茶を飲むのは好きなことだが、ある時ふとお茶だけを飲みたくなるのだ。

音楽がかかっていて、座り心地のいい椅子で、心地よい温度の中で、大きな窓の前で、いつもと違う風景を見て、人を感じながら、そういう時間が取りたくなるのだ。

これは浪費に分類される支出だろう。
最低限生活に必要な出費ではない。

こういった時間は誰しも必要だと、肯定する意見はよく聞く。自分を取り戻す、自分を見つめ直す、社会との繋がりを感じる、頭を整理させる、環境を変える。本当に必要なのだろうか。
山奥に一人または二人暮らしの人は、こういう時間がないと自己が破綻するのだろうか。

どうにも私は贅沢だとしか思えない。
贅沢だ、というのはネガティブな感情を含んでいる。しかし私はその贅沢をやりたくなるのだ。

そしてやってみて、美味しいお茶に満足し、青い空を眺め、そして一抹の後ろめたさを感じて、自己満足に浸るのである。

スッキリしない。
一抹の後ろめたさなど感じたくない。

実際これは私のお小遣いで飲んでいるのだ。誰に迷惑をかけているわけでもない。浪費だっていいじゃないか。こういう時間を持つと人は少し気分が変わって自分の心に余裕が生まれると言うじゃないか。

では私は今、心に余裕ができたのか?お茶を飲む前は心に余裕が無かったのか?心に余裕が無い状態じゃないと、外でお茶を飲む理由にはならないのか?

こういう後付の言い訳を言いたくない。こんな事を頭で考えるから後ろめたさを感じるのだ。

もっと素直に、快適な環境でお茶を飲みたいな、ああ美味しかったな、で終わりたい。

しかし私は行く前からも、飲んでいる最中も、飲み終わってお店を出て帰路についても、外でお茶したことの言い訳を考えるだろう。
そして無理やり正当化する。なんとかならないものだろうか。私というものは。


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