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【平日随筆】だから私は新幹線に乗って髪を切りに行く

中学の時ほど、世界との壁を感じて生きていた時期はない。
当時のわたしはなによりも自由であることに固執していた。
だから、それを阻むものや人をひどく嫌った。
生まれてはじめて抱いた、反骨精神というやつだったと思う。

よりによってわたしの中学は、スカートの長さや髪型はもちろん、髪に止めるピンの数、お昼に買うパンや飲み物の種類まで決まっているような学校だった。(惣菜パンはOK、菓子パンはNG、つまり焼きそばパンはよくてメロンパンはダメで、おかず系ならいいのかなと思いきやおにぎりは全部NG、紙パックの牛乳はOK、ペットボトルのお茶はNGという未だに解明されていない謎ルールが山ほどあった。20年経ってもまず言うけど、なんでやねん)。
くわえて、妙な号令や挨拶の習慣が義務付けられており、少しでも気を抜くと平気で体罰が飛んでくるような授業もあった。(なぜか座る時に「いち、に、さん!」と言わなければならなかった。なんっでやねん。誰の何に対する気合いやねん。)

とりわけ学校の特色が嫌ほどに出た体育祭のマスゲームはひどかった。
少しでも列が乱れると、「なにふらついとんねん!」と頭を叩く女の体育教師。「すみません!」と何度も頭を下げて謝る生徒。
マスゲームにはなぜかV6と大黒摩季の歌が使われていた。偏った音楽の趣味を押し付けられることにもうんざりしていた。V6にも大黒摩季にもまるで罪はないのだが、わたしは今でもそれらの曲を聴くとちょっと嫌な気持ちになってしまう。(君が描いた未来の中に〜♪が一番きつい)
朝から貧血気味だった子が移動に遅れてグラウンドで体罰を受けた日、わたしは学校の小さな木の枝にマスゲームで使う手袋とポンポンをひっかけて、家に帰った。
あの日からずっと、尊厳って何なのかを考えている気がする。

件の女教師に視聴覚室でスカートを「折り込んでいる」と言われ、何の断りもなく体に触れてブレザーをまくられた時は、謝罪を求めて怒った。通学路でガムを噛んでいた、という理由だけで担任が仕事中の両親に何度も何度も電話をかけて、出ないことを愚痴られた時にもキレた。
そんな日は、もれなく無断で早退して、しばらく学校に行かなかった。
登校拒否という名のストライキは小学校でも経験済みだったが、中学生という多感な時期ということもあり、わたしは自分ですらその感情の起伏を持て余すほどだった。イライラした時に舌の先を思い切り噛んだり、爪で皮膚を引っかいたりしていた。当時のわたしは本当に激しくて、諦めが悪かった。あの頃わたしは椎名林檎の「17」を、ブルーハーツの「ロクデナシ」を、charaの「あたしのかわいい手」を魔法の呪文のように聴いていた(この曲はのちにわたしに上京をも決意させ、人生のプレイリストに欠かせない1曲となる)

コンプレックスに対するカバーに頭を悩ませたのもこの時期だった。成長が遅くいつまでも胸が小さかったからパッドを入れたし、一重の目にはアイプチという名の魔法をかけ、ニキビができたらファンデーションという名のベールを纏った。アイプチもファンデーションも母が買ってくれて、パッドの上手な入れ方は8個上の姉がブラジャーをプレゼントした上で教えてくれた気がする。我が家は、我流で、自由で、個人をいつも尊重してくれた。だから余計に、外に出ると苦しかった。

アイプチを続けたことで薄いけれども二重のクセがついたし、ファンデーションをし続けたことで日焼けもあまりしていない。胸はいまだに小さいけれど、今この瞬間も育乳ブラをつけているし、別にあきらめたわけではない。
今の私とさほど変わらない、あの頃の私。自分を少しでも好きになるための、素敵に思えるための工夫や判断はどれも決して間違いじゃないと思っていたし、今でも信じているけれど、当時は辛い思いもした。

「こっちの方が素敵」「こっちの自分の方が好き」と思ってやっていたことが、この学校では、恥ずかしい、取り沙汰されるようなトピックだったからだ。顔を無遠慮に近くでまじまじと見られたり、告げ口をされたりした。陰でも聞こえるところでも悪口もたくさん言われた。
こんなこともあった。
移動教室の時に、他クラスの女子が突然駆け寄ってきて、おもむろに胸を掴んできたのだ。わたしの胸が本物か偽物か確かめるためだろう。不躾で卑しい手つきと歪んだ目尻が気色悪くて、率直に「ブスだ」と思った。その女子は胸を掴んだ後、その背後で笑っていた複数の男子に駆け寄り、耳元で何かを話した。その子の背伸びしたつま先にも、男子のにやにやとしたの口元にも、吐き気がした。彼らを嫌う、というより、とことん軽蔑していた。こんな下品で低俗な奴らと一瞬たりとも絶対に相容れない!と力を込めて生活していた。だから、なんだかいつも歯が痛かった。家に帰ると、一気に脱力して、泣きながら音楽ばかり聴いていた。それから時々詩を書いた。詩を書き始めたのはこの頃だった。
あの時私の胸を掴んだ女に地元の銭湯で会ったことがある。にやにやと笑った男が運転してるのを見たこともある。女子や男子、じゃないのは大人になってからのことだからだ。それもそんなに昔でもない。
だけど、大人になってもその女や男を嫌い、軽蔑する気持ちは私の中から全然消えていなくて、私は一人狼狽えてしまった。狼狽えてるくせに気付けよ、と思っていた。大人になった私を見て、その裸を胸を見て思い出せばいい、悔やめばいいのにと思った。でもそういう害を加えた側のやつらにとってはきっと取るに足らないことで、多分今もバカだから覚えてるはずもない。こんなふうに筆にも怒りを隠せないくらい私の体にはまだその傷が残っていて、多分、彼女や彼を許せる日は一生来ないのだと思う。

だけど、友達が一人もいなかったわけじゃない。同じように自由を愛して、担任に「箸を使え」と言われても、「いや!スプーンとフォークの方がかわいいもん!」って言い返すNちゃんは大好きだったし、部活のミーティングで大多数の意見に反した自分の考えを発言していたIちゃんの伸びた背筋を美しいと思っていた。
いつも集団で行動していて、ハブられるターゲットが順番に回ってくるような部活があって、そこでターゲットになってしまった子と放課後に「神様、もう少しだけ」という再放送の連ドラを見たりもした。高校生になったら、あんな風に大きな恋をして、あんな風に自由になるんだ!と、金城武に手を取られ街を全力疾走する深キョンをまぶしく見ていた。

そんな頃だ。この辛い中学生活ですら絶対なくてはならなかった、と全肯定できる出会いが訪れたのは。

中3で同じクラスになった彼女は、学校にこないわたしのために来る日も来る日も律儀に連絡帳を届けにきてくれた。はじめは受け取るだけだったのが、いつしか、家に招き入れるようになり、夏に初めて2人で京都で遊んだ。彼女はスポーツ万能で部活にもきちんと行っていたし、だれの悪口も言わず、反発もしない。なのに、誰にも立ち入れない聖域と確立された絶対的な世界観を持っていた。みんなと同じように制服を着ていても、揺るぎない自分らしさが滲んでいた。校則の抜け目をうまくつかった短くてわざとガタガタな前髪、カバンに唯一許された"目印"という名の自由、みんながキーホルダーをつけたりする中で彼女はかわいいミッキーの絵をカバン一面に自分で描いていた。
初めて彼女の私服を見た時、その個性の輝きにわたしは圧倒された。
わたしは、彼女の一挙一動に惚れ惚れした。本当にしたいのは、こういうのだ、と思った。自由や自分らしさは声高に叫ばないと手に入らないものだと思い込んでいたわたしの熱が、彼女の存在でクールダウンした。一晩かけて鼻先だけが冷えきった冬の朝のように、熱が下りていった場所がわかるくらいの明瞭さだった。

学校という場所から救ってくれた。
自由や個性は気持ち次第で手に入るのだと伝えてくれた。
"憧れ"という気持ちを最初に教えてくれた。
やわらかい声で、羽根のようなまつ毛を伏せて、いつも高い木に向かって飛んでいく。色素の少し薄い茶色い瞳を開いて、眩しい陽にも強い風にも負けず、空を射るように飛んでいく。人知れず、ハートに信念を燃やしながら。

今でもお正月を一緒に過ごすその親友は、出会った頃から変わらないまっすぐな生き方で自分の道を突き進み、大阪のおしゃれな美容室でトップスタイリストになった。だから、私はどれだけ髪が伸びても、東京では髪を切らない。親友に切りそろえてもらう髪が、染め上げてもらう髪が私を一番強くしてくれるから。
毎日のドライヤーすらろくにできない私は、新幹線に乗って髪を切りに行く。
これまでもこれからも。そのギフトを、そのドラマを私はとても愛してるんだ。

不登校生への配慮としてわたしの席が1年間ずっと彼女の後ろだったこと。
何もかもが間違っていたあの学校で、その作戦だけは大成功だった。
毎日彼女に会えるだけで学校の風景は全然違うものに見えた。周囲に溶け込めない息苦しさや嫌いな人が増えていく生きづらさはあったけれど、分かりやすく学校は楽しくなった。そんな頃、卒業を迎えた。どれだけ願い続けたかしれない、この支配からの卒業、だ。尾崎豊は最高にロックだけど、窓ガラスを割りに行くにも、またあの校舎に入らなければいけないのか。
それはもうしたくないと思っていた。

©︎『だから私は新幹線に乗って髪を切りに行く』/丘田ミイ子
初出:随筆集『喝采の日』初出時タイトル/『学校』

*+*+What is 【平日随筆】*+*+

「35歳までに自分の連載を持ち、書籍化する」私にはそんな夢がありました。
チャンスは何度かあったがどれも白紙、どころかチャンスがピンチになる経験等もし、来月6月に遂に36歳に。
だから今日から約1ヶ月、35歳の私の為の連載【平日随筆】始めます。
更新は週5。諦めの悪い自分が時々好き。よかったら読んでね。


*+*+Who is 丘田ミイ子*+*+

丘田ミイ子(おかだみいこ)
1987年生まれ、滋賀県出身。大学卒業後、フリーライターの道へ。祥伝社刊行『zipper』にてライターデビュー。
その後、出産をきっかけに2014年より同社『nina`s』で5年間活動。その傍ら、『リンネル』、『Lala begin』、『LEE』、『FINEBOYS』、『赤すぐ』、『Olive』などの雑誌や『She is』、『SPICE』、『ローチケ演劇宣言!』、『演劇最強論-ing』、『DRESS』、『CHANTO web』などのweb媒体、その他企業メディアや広告媒体などへ活動の場を広げる。
ライターとしての執筆ジャンルは演劇、映像作品に関するインタビューやレビューなどのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど。
近年は、小説やエッセイの寄稿も行う。直近の掲載作に、私小説『茶碗一杯の嘘』(『USO vol.2』収録)、エッセイ『母と雀』(文芸思潮81号 第16回エッセイ賞優秀賞受賞作として収録)などがある。
2015年より育児と仕事の合間を縫って書き始めた初の長編小説を2022年に脱稿。破綻した恋愛と東京の街、ある時は劇場、またある時は雑誌編集部で他者の才能に翻弄されながら”ある時”を迎える駆け出しの文筆家の3年間(2011-2014)を描いた、85%の本当と15%の祈りから成る私小説的物語。版元・刊行・発表形式は現状未定。職種問わず、読んで下さる方はいつでも探しています。
詳しいお仕事歴や掲載媒体のリンクは以下へ
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