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【平日随筆】あだ名という暴力

15年前、私はコンビニ店員であり、駅員補佐だった。
バイトを掛け持ちしていた訳ではなく、コンビニで駅員補佐をしていたのだ。
駅直結ならぬホーム直結で、つまり店内に改札があった。大手4社には該当しない西日本にしかないローカルなコンビニ。24時間営業ではない。閉店時間は1:00。
そこで働く人はみんな、改札の詰まりを直すことができた。キセルを追い返すこともできたし、見逃すこともできた。深夜勤務の最後の仕事は、終電1つ前の上り電車の乗客たちがホームからいなくなったのを確認してから、改札の電源を落とすことだった。改札は二箇所あったけれど、階段の昇降がない分この改札を利用する乗客は多く、さらにその多くが買い物に立ち寄る。買い物客自体の割合が少ない時間も電車の発着時刻に呼応してひっきりなしに人の出入りがあるので、終始騒がしく、忙しない店だった。

大学生だった私は夕方〜深夜にかけた時間帯のシフトに入ることが多かった。学校の多い街だったので、夕方には学生たちによるアイスラッシュ(夏)と肉まんラッシュ(冬)が起こり、夜には仕事帰りの人たちによるたばこラッシュ(通年)が起きた。ヤンキーが多い田舎街でもあったので、遅い時間になると今度は溜まり場ラッシュが起き、店先でケンカが始まることもあったし、酒に酔った客に絡まれることもよくあった。深夜の時間帯はいつも男の先輩が一緒だった。

改札前で泥酔してうずくまってしまったおじさんに声をかけると、「俺は今帰ったらマンションの屋上から飛び降りると思う」と泣かれてしまい、水を飲ませてなだめながら先輩Aと一緒にマンションまで送り届けたこともあった。おじさんは泣きながら何度もお礼を言って帰っていき、翌日全てを覚えていない様子で来店した。

「瓶ビール出せ!殴れる瓶を出せ!」と興奮した男がレジに来たこともあった。
私と男の先輩2人がレジにいて、慌てた先輩Bが「瓶はないんですけど、醤油なら」と妙な返答をし(そういったトラブルを考慮してかは分からないがビン飲料は置いていなかった)、落ち着いた先輩Cが「お兄さん、大丈夫ですか?一旦落ち着いてください」と指先に怪我をしていたその男に絆創膏を渡した。しばらくして落ち着きを取り戻した男は「ごめんな、怖がらして」と怯える私に謝った。先輩Cの英断のお陰で大事には至らなかったけど、閉店後に店長が来て、念のため監視カメラを確認することになった。2人の先輩の間に挟まれていた私はあの時どんな顔をしていたのだろう、と見たら、目をつむり胸の真ん中で両手を組んでいた。「怖いとき、人は祈るのだ」ということを私はその時知った。

普遍的な駅という場所、そのホームに直結という通常のコンビニよりも流動的な仕組みから、そんな人間交差点的な来客エピソードが多くあったのかもしれない。私たちはそんなエピソード起因で「泣き上戸」とか「ビン」、エピソードはなくとも、商品や銘柄由来で「フィリップ(モリス)」とか「パーラメントじいさん」とか「(蒲焼)さん太郎」とか、バックヤードでしか通じないあだ名を客人につけたりしていた。
バイト上がりに駅前の笑笑で「(蒲焼)さん太郎」と隣の席になったことがある。「コンビニのお姉さんですよね」と声をかけられて少し飲んだ。あだ名をつけていたことを告げると彼は笑った。そして、彼ら界隈では私自身も「バンギャル」というあだ名をつけられていたことを知った。今、最寄りのセブンイレブンのバックヤードで、自分が「岩下(の新生姜)」とか「公共料金滞納おばさん」などと言われているのではないだろうか、と思うのは、紛れもない、自分がそういうことをしていた心当たりからだ。

だけど、あだ名は、笑いで済まないことがある。
前置きが長くなってしまったけれど、今日書きたいのはこのことだ。

「バンバン」というあだ名の老人がいた。
その老人は頻繁ではないけれど一定の周期で深夜近くに来訪した。この街に来た時はコンビニと反対側にある地下道で眠っている、という話だった。
喚きながら店内を歩き、一際大きな声で「バンバン」と叫ぶと、五月雨に陳列棚を揺らしたり商品を叩いて床に落としたりした。誰も注意はしなかった。長い時間をかけて店内を歩いた後にEchoを一箱買うその老人のことが私はとても怖かった。
だけど、顔色を変えたり拒絶するような振る舞いをしてはいけない。漠然と「差別をしてはいけない」と思っていた。
でも、それは真意ではなかったと、今はっきりと思う。

私はいつも「今日来たらどうしよう」と思っていた。もっと言うと、「今日は来ませんように」と祈っていた。
長い爪の先に用意されていたぴったりのお金を受け取る時、その指先が小刻みに震えているのを感じる時、身がすくむような思いがした。彼が去った後に商品を拭かなければいけないこと、自動ドアをしばらく開けたままにしなければならないのも嫌だった。それは店を営業する上で業務上致し方ないことでもあり、暗黙の決まりだった。
次第に遠くなっていくわめき声を聞きながら、ドアの前にしゃがんでその開閉を解除する時、いつも言いようのない後ろめたい気持ちが残った。だけど、私はドアを開けたし、開けっ放しのドアに気づいた店長に「バンバンが来たので」などと言っていたはずだ。
ドアの開閉を解除する時に感じていたような僅かな後ろめたさを、彼を「バンバン」と呼ぶ時には感じていなかったように追憶する。その程度の、「差別をしてはいけない」だった。

「差別をしてはいけない」と思いながら、「差別」とはどういうことなのか、そのどういうところが「いけない」のか、「どうすればそれをなくせるのか」など当時の私はまるで深く考えていなかった。
「きちんと接客をしなくては自分も叩かれるかもしれない」という恐怖と、風貌で接客を変える人間だと、つまり「自分が差別をする人間だと周囲に思われたくない」という気持ち。その方が勝っていたと思う。「いけない」と思う心と同じ心で彼のことを「怖い」とも「可哀想」とも思っていたと思う。彼が改札に詰まらせた一駅分の切符を見逃したこともあったけれど、その時も私はきっとどこかで「通して“あげた”」と思っていたのではないだろうかと今思う。

何より自分は、彼のことを、彼の言動を揶揄するようなあだ名で呼んでいたのだ。いや、「揶揄するようなあだ名であること」自体に気づいてさえいなかった。何の疑問も持たないどころか、自分の頭や心を使って想像も思考もせず、無意識にそのあだ名を口にしていた。

酷く暴力的な行動を自分がとっていたことに気づいたのはずっと後になってからだった。義父が同じタバコを吸っていたその時に、私はそれまで忘れていた彼のことをはじめて思い出した。そして、その時の自分の姿や言動を思い返してはじめて、無意識の中にあった自分の差別的で暴力的な意識を自覚した。

当時から15年を生きた今の自分なら、もう少しの想像と思考はできるとは思う。
正直に書くと、その状況で「怖い」と感じることは変えられないかもしれない。また祈ってしまうかもしれない。でも、「話したいことがあったけど、話せないのかもしれない」とか、「思うように手が動かなかったのかもしれない」とか考えるだろう。と思う。今から彼のことや彼の抱えていた事情を知る術はなく本当のところは何一つ分からないけれど、10代の頃よりはいろんなことが考えられたかもしれない。その思考や想像の先で社会に対する疑問や怒りを覚えたかもしれない。いや、どうだろう。

本当に、そうだろうか。

noteで新今宮の記事が炎上したのを知った時、私は自分自身がライターということもあって、大きなショックを受けた。ショックの理由はたくさんあった。
34歳の文筆業の自分が「どうしてこんなことを書いたのだろう」と思ったのも「自分だったらこの仕事は引き受けないだろう」と思ったのも事実だった。
代理店やクライアントのいる仕事をすることもあったので、その酷い背景もこたえた。こんなPRがまかり通ること、その責任をフリーランスのみに負わせ、大きな会社や公的機関にいる人たちが1mmも背負わないこと。書いた人の人間性や家族との関係、過去の文体にも強い言葉とバッシングが及んだこと。
一連の全てが、とてもショックだった。
そして、「ショック」という一時的なものでは片付けられない、澱のような気持ちがいつまでも心に残った。

その澱の正体こそ、誰でもない、自分の中に潜み眠り、そして在る暴力性だった。
自分の中には、15年前にあのあだ名を躊躇わず口にしてしまったような暴力的な意識が今も眠っているかもしれない。そういうものが、いつ自分の中から起き上がってくるのか、起き上がり、誰かに向かって動き出すかもしれないということが、とても怖かった。

「自分は絶対そうならないと思っている」
「見下している」「他人の人生のエンタメ化」「高みの見物」「貧困のポップコーティング」「笑顔のファシズム」「格差を楽しむ観察対象」「消費コンテンツ」「感動ポルノ」。搾取、悪趣味、ファンタジー、グロテスク、オナニー、エモい、見世物、排除アート。
飛び交う意見の中にあった強い言葉たちは、どれもが胸に突き刺さった。抉られた。

自分の倫理観や想像力が怖くなった。文章を書くことが、もっというと、人と人の間で言葉を使って生きていくことが怖くなった。引き受けるか否かの問題を一旦置いておいて、もし、何らかのことで自分があのような記事を書いていたとしたら。別の人間が書くのだから、シンプルに別の切り口や文体になっていたとは思う。だけど、果たしてそこに差別や暴力の破片はなかっただろうか。私には自信がない。そして、今そんな風に「自信がない」「怖い」と感じているそのことにすら、自分を過信するようなエゴイスティックな気持ちは混ざっているのだと痛感する。

「自分は絶対そうならないと思っている」
とりわけこの言葉は頭から離れなかった。共感ではなかった。「”自分もそうなるかもしれないから”差別をしない」というのはどこか腑に落ちない部分があった。誰かの命や存在、その尊厳は「自分もそうなるかもしれないから」「自分の大切な人が同じ目に遭ってはならないから」守らなければならないのではなくて、全ての人が持つ基本的人権の尊重として守られて然るべきことなのだと思う。

そして時間の経過とともに、この言葉は別の意味を持って自分の中の澱を泳ぎ続けた。
「自分は絶対差別をしない人間だと思っている、のではないか」ということだ。
文章を書くことを仕事にし続けていく上で、いやそうでなくとも、「自分は絶対そう思わない」「自分はそうは書かない」と思い込んで生きていくことはとても恐ろしいことだと思った。

私はこれまで、世の中の出来事や誰かの発言や作品などに対して感想を綴ることはあっても、意見や批評、それらを言葉にして発信することを極力控えてきた。
それは純粋に自分の人間としての性格や思想と、(あくまで自分の中での)ライターという仕事における定義や主義に沿ってのことだった。生来のアナログな気質ももちろんあるけれど、それもあってSNSもさして活発ではなかった。

だけど、自分の問題として見つめ直さなければならないことがある。
今回の件は、まさにそうだった。いや、今回の件だけではない。世の中に起こることの全ては多分そうなのだった(それを大々的に発信するか否かは別としても)。
誰かのためでなく、誰にどう思われたいとかではなく、自分が自分を忘れないために、自分に自分を発信しておくために、筆を執らなくてはならない時だと思った。そこから社会を見つめていかなければいけないと、今を生きる中でそう思った。

noteを使うことすらやめていたけれど、そんなことでは到底整理がつかなかった。どこにどんな文章を書く時にもそのことは脳裏から離れなかったし、そんな中で毎日のように、「差別」や「差別的な事件や出来事」が多く起こった。障害を持った人が殺されてしまった事件、女性だから命を狙われた事件、ホームレスの人が傷つけられる事件…。歴史や人種、性別…。その度、許せない、と憤った。見えていないだけで他にもたくさんのことが起こり続けているのだと思うと、目眩がするような気持ちになった。

そして、その一つ一つを「許せない!」と憤ると同時に、自分のその正義(かどうかすら定かではないけれどそのようなもの)と同じ場所に在るかもしれない暴力が頭を過った。それを認め、見つめ、今感じていることも含めてどこかに明記しなければならない気持ちにかられた。そうしなければ、ここから以降の11年目からの文筆業を続けていってはいけないような気すらした。そしてそれは、私の中で「note」という場所でなければならなかった。いろんな考えの人がいるし、これが正しいかもわからない。でも、私はそう思って、今筆を執っている。

文章を書くという仕事は、これまでも、どんな形のものであっても想像と思考の連続だった。自分の言葉を書くときも、人の言葉を借りる時も。インタビューの相槌や語尾を一つとっても、話した人、関わった人の「本意ではない形」になっては、本当はいけない。(本当はいけないそのことが起きてしまう事実、私を含む全ての書き手聞き手、編集者などがそれを起こしてしまうという危惧があること。その責任を自覚することの必要性もこの1ヶ月で改めて痛感している)
タイトルをつける時や文中の文字を大きくしたり色をつける時、発言の在処、「」や?の場所、職業や性別の表記……数えきれない。そして、「この言葉や表現は誰かを傷つけてはいないか」ということ。

ライターという仕事は時にとても乱暴だと思う。
例えば、作品のPRの一環のインタビューがあったとして、こちらが聞き出そうとしていること=作品にまつわることのためにそれとなく導線を敷くこともあるし、その誘導がうまくいくように相手の回答に対する本当のリアクションとは別の反応、つまり少し嘘のようなものを出したりする時もある。(テーマが脱線しそうになって、せっかく話してくれているのに話題を次に切り替えたり、もう少し話が続きそうでも時間配分的に次の質問に行ったり)
場をやわらげたり、盛り上げたりするために冗談を言ったり、笑いをとろうとする時もある。瞬発戦だからそんなつもりじゃなく不用意な発言をしてしまったり、言葉選びを後悔することもある。もちろん仕事であって、全うしなくてはならないのだけど、私と話すことによって相手を不快にさせたり、不安にさせたり、傷つけたりする可能性はいつもたくさんあって、12年やったって私はいつもそれが怖いし、決して平気なわけではない。(無論こちらが傷つくこともある)
人と会話するとき全てに当てはまることでなにもライターに限ることじゃないけれど、初対面の人や二度は会えない人、親しくはない人と一対一で話す機会が圧倒的に多いからこそつくづくそんなことを思う。

それは「書く」ときもまた同じだ。
10年この仕事を続けて、雑誌やWEBや広告という人の目がつくところに自分の書いた言葉がいくつも出て行った。こんな自分の中からその言葉たちは出て行ったのだから、きっと想像が足りなかったことや配慮に欠けたところがあったと思う。そんな不備や至らなさと同じくらいに過信や驕りもあったと思う。そして、それらの理由や、私では考えすら及ばないような他の理由で誰かを傷つけたことがあったと思う。今のこの文章にだってあるかもしれないし、文章でなくともそういうことをしてきたかもしれない。そのことを今自覚しておきたいと思う。

誰1人傷つけずに、人が生きていくことは正直なところ難しい。そして、誰も傷つけずに生きていけると思うこと自体が多分、烏滸がましいことでもある。
だからこそ、想像と思考を繰り返したいと思う。文章だけではない、言葉を使うとき、誰かを呼ぶとき、もだ。
4ヶ月考えた末、この文章を書き始めた。この文章を書いていた10日ほどの間にも多くのことが起こった。そして、今、誰よりも自分が忘れてはいけないこのことを、自分へのアラートとして残しておこうと思った。
あるあだ名で人を呼んでまったこと、その自分の中に未だ在るかもしれない暴力について自覚すること。今、私は自分が「怖い」ということ。
「自分は絶対大丈夫だ」とはきっといつまでも思えないから、「自分は大丈夫なのか?」という一つの自問と戒め、そして自分への恐ろしさに対する自覚と祈りを込めて、この文章を残しておこうと決めた。

©︎『あだ名という暴力』/丘田ミイ子
初出:2021.8.17 noteにて掲載
初出時タイトル:【自分の中にある暴力を自覚する】15年前、あるあだ名を口にしてしまったこと

*+*+What is 【平日随筆】*+*+

「35歳までに自分の連載を持ち、書籍化する」私にはそんな夢がありました。
チャンスは何度かあったがどれも白紙、どころかチャンスがピンチになる経験等もし、来月6月に遂に36歳に。
だから今日から約1ヶ月、35歳の私の為の連載【平日随筆】始めます。
更新は週5。諦めの悪い自分が時々好き。よかったら読んでね。


*+*+Who is 丘田ミイ子*+*+

丘田ミイ子(おかだみいこ)
1987年生まれ、滋賀県出身。大学卒業後、フリーライターの道へ。祥伝社刊行『zipper』にてライターデビュー。
その後、出産をきっかけに2014年より同社『nina`s』で5年間活動。その傍ら、『リンネル』、『Lala begin』、『LEE』、『FINEBOYS』、『赤すぐ』、『Olive』などの雑誌や『She is』、『SPICE』、『ローチケ演劇宣言!』、『演劇最強論-ing』、『DRESS』、『CHANTO web』などのweb媒体、その他企業メディアや広告媒体などへ活動の場を広げる。
ライターとしての執筆ジャンルは演劇、映像作品に関するインタビューやレビューなどのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど。
近年は、小説やエッセイの寄稿も行う。直近の掲載作に、私小説『茶碗一杯の嘘』(『USO vol.2』収録)、エッセイ『母と雀』(文芸思潮81号 第16回エッセイ賞優秀賞受賞作として収録)などがある。
2015年より育児と仕事の合間を縫って書き始めた初の長編小説を2022年に脱稿。破綻した恋愛と東京の街、ある時は劇場、またある時は雑誌編集部で他者の才能に翻弄されながら”ある時”を迎える駆け出しの文筆家の3年間(2011-2014)を描いた、85%の本当と15%の祈りから成る私小説的物語。版元・刊行・発表形式は現状未定。職種問わず、読んで下さる方はいつでも探しています。

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