検察側の罪人
気になりつつ観ていなかった映画「検察側の罪人」を観た。
木村拓哉・二宮和也の共演ということで話題になった作品。
あらすじ
作中の未解決殺人事件の重要参考人・松倉は、限りなくクロに近いと言われながらも、決め手となる証拠がなく、結局逮捕が見送られた。そのまま年月が過ぎ、事件は時効に…。
法改正により、現在は凶悪犯罪の時効は廃止されたが、改正前に時効成立となった事件は当時の時効期間が適用されるという隙がある。
彼は後に殺人の罪を認めたが、この法律の隙により、裁きを免れた。
そんな曰くつきの人物が、別事件の容疑者として挙がってきたら、刑事としてどう向き合うか…。
これを本作の主題として、ベテラン検事・最上と若手検事・沖野を中心に物語は進む。
「時効」という主題に対して
殺人を犯しても、時効が成立してしまえば罪に問うことができなくなる。
犯罪者を裁く根拠となるのは法律だが、その法律も完璧なものではないのだ、ということを率直にまず実感させられた。
では、そもそもなぜ時効という制度が設けられているのか。
主には、以下の三点の理由かららしい。
時間の経過により社会的影響が薄れ、処罰する意義が小さくなる
時間の経過により証拠が集めにくくなり、正しい裁判ができなくなる
裁判にかけられないまま長期間が過ぎた状態を尊重する
二点目はまぁ分かる。証言なども時間が経てば記憶が曖昧になってしまうのも致し方ない。
三点目は被告人を尊重する内容で、罪を犯したような人間をそんなに保護する必要があるのか?という気もするが、確たる証拠がない状態ということから、冤罪を防ぐ目的なのかなと自分なりには理解した。
一点目は、殺人などの凶悪犯罪においては、到底時間が経ったからとて被害者の哀しみは薄れるものではないだろう。
当然そういった声も多く、近年法改正がなされたということのようだ。
映画と原作の違い
原作では、法で裁けない罪人に対してどう向き合うべきかという点に絞ってストーリーが展開されていて、大変読み応えがあった。
多くのドラマ等では警察・検察の違いまでは説明されないのでこちらもなんとなくで観てしまっているが(そのくらい常識と言われたら何も言えないが)、本作では警察と検察の役割の違い、起訴までのプロセスなども分かり「実務上はこうなってるのか」と勉強にもなった。
また、最上の指導のもと、沖野が何日もかけて松倉を問い詰めていく様子が描かれており、「松倉が本当に真犯人なのか?」と疑念を持ちながらも職務として追及を続けなければならない苦悩がより克明に分かった。
一方映画では、オリジナルで「太平洋戦争」がサブテーマとして盛り込まれている。
例えば、最上が一大決心をするきっかけとなる、親友の丹野の死。
原作では、丹野は大物政治家である義父・高島を尊敬し支えたいと願う。一方映画では、高島は極右的思想を持ち政治資金を使っており、丹野はそれを改めさせたいと思っている。
丹野の自死の動機には高島が大きく関わっているが、その背景はまるで違うものになっている。
原作と映画でストーリーが若干違うのはまぁよくあることだし、映画化するなら監督としてはオリジナリティを出さねばと思うのかなという気もするが、今回の場合は「太平洋戦争」色が強く出過ぎて本来の主題が見えづらく、話があちこち分散して何を伝えたい映画なのか少し分かりづらくなってしまっている印象を受けた。
しかし、役者は皆、迫真の演技であったし見応えは十分にあったかなと思う。
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