見出し画像

おいしいいちごサンド食べたい。

この世の中がざわざわしている中祖母が他界した。
89歳。せめてあと3年は生きていてほしかった。

祖母は東京の23区外のある街で長いこと生活していたが約1年前、叔父一家と叔母の母の住む家へと引越した。
引越し先は同じ関東のとある県ではあったけど祖母の持ち家ではなかったのと私含め姉妹少々出来の悪く叔父や叔母に対して劣等感もあり以前のように思いつきで行くこともできなかった。

1ヶ月ほど前、同じ県内に妹(次女)と甥の住んでおり泊まりに行った際会いに行こうと連絡したのだが
翌日祖母より電話があり家に植木屋さんが来るということで会えなくなってしまい、電話越しで声を聞いたのが最後になってしまった。
妹と電話を変わったあと祖母が、
「○○ちゃん(私)になかなか会えないから会いたかったなー」と言っていたと。
訃報を聞いた時はその事が頭の中で何度も何度グルグルしてなんでもっと早く会いに行こうとしなかったんだとまだまだ祖母は元気だなと安心し過信していた自分が悔しくて涙が止まらなかった。

翌日、主人と一緒に叔父の家に向かい祖母と対面させてもらった時悲しくてもちろん涙が出たのだが眠ってるような顔の祖母を見て言い方はちょっと悪いかもしれないが少しほっとした。

そして数日前、最期のお別れ。
叔父の住む街ではなく祖母が住んでいた街の祖父の時にもお世話になっているお寺でのお別れ。
祖母に手紙を書いてきた。
さっき書いた会いに行けなかったことへの謝罪、そして感謝の言葉を綴った。

通夜の帰りふと祖母の家の事を思いだした。

祖母が引っ越す前の話。
街の再開発プロジェクトのようなものがあり以前から土地を売る話がうっすらとあった。
諸々の事情で叔父一家は先に引越し、家には祖母一人になるということで私の母と妹(三女)が叔父一家の使ってた居住スペースへ引越し一緒に暮らしていた。
その事もあり、その期間はちょくちょく私も祖母に会いに行っていた。
その後土地を売ることが正式に決まり祖母が先に家を出た。

祖母が家を出てから数週間後。
母と妹の新居への引越しを手伝いに行った。
祖母の家で引越し業者とのやりとりをまかされて母は新居へ向かった。
業者を待っている間ほとんど何もなくなり灯りもない祖母の居住スペースを見た時胸がギュッと締め付けられ寂しさを感じた。

通夜の帰りその前の道路を通ったのだがそのたくさん思い出のつまった家も取り壊され立ち入り禁止のフェンスが張られているのを見てその時の寂しさと同じだなと思い出した。

翌日の告別式。
感染リスクを考え会食はしないことになっていたので主人と妹(三女)とともに近くのコンビニにサッと食べれるものを買いに行った。
妹がいちごサンドをカゴに入れたので傷むのではないかと心配し声をかけたのだか「大丈夫」と言うのでまぁ涼しいところに置いておけば平気かと会計を済まし斎場へ向かった。

斎場に着くなり妹が袋からいちごサンドを取りだし祭壇へ持っていった。
祖母はいちごサンドがすきだったようだ。
これは知らなかった。
他にも大福やケーキ、手作りのお弁当などたくさんの食べものが祭壇へ飾られ祖母がたくさんの人に優しくしたようにたくさんの人に愛されていたのだなと思うと涙腺が緩んだ。

火葬場で最期のお別れをし涙声になりながらありがとうと伝えた。
ありがとうを言うのが精一杯だったので、甥がまだ小さくこの状況下で参列できなかった妹(次女)を見守っててと心の中でお願いした。
行ける距離なのに行けない悔しさとやるせない怒りは知っているので母として息子を守っている妹は立派だと思う。

待っている間控え室に密集しているのも良くないと主人の車で待機していたらいきなり突風が吹き火葬場にある桜の木から花がたくさん舞ったときなんだか祖母が桜と一緒に空へ行ったような気がした。
極楽浄土に行けますように。
そして祖父のもとへ行けますように。


この事態が収束して日常に戻ったら姉妹で祖母のお墓に行こうと言った。
1日も早く落ち着いた生活になってほしい。
そして母とどこかに出かけたりもしたい。
母と旅行に行ったことがないので趣味の御朱印集めができそうなところへ連れていきたい。
いずれくる別れの日に後悔しないように生きたい。