死ぬ瞬間

父が余命宣告されたのは昨年9月だった。
大腸がんのステージ4、転移もあり、手術はできない状態だった。
何もしなければ数ヶ月、とも言われたが10ヶ月間がんばった。7月にこの世を去った。

どんな気持ちで父は過ごしていたのだろう。
昭和の男という感じで、あまり弱いところを見せなかった。特に娘であるわたしには。
いつもどこかかっこつけてたのではないだろうか。
恐れや不安はそれなりにあったと思う。痛みも相当あっただろう。
それをわたしに漏らすことはなかったし、
わたしにはかっこつけてる父をそのまま見ていることしかできなかった。

最期の2週間くらい前は緩和ケアの病院に転院した。
看取りのときは、何度か病院に呼ばれた。
夜の時もあれば朝の日もある。しばらく様子をみて、帰るという日が何日か続いていた。

その日も朝から病院で付き添っていた。
ふとFBを開いてみると、友達の投稿が目に止まった。彼女のお父さんも同じ時期に余命宣告を受けていた。彼女のお父さんはご存命で、自分の誕生日に際し、お父さんに感謝の気持ちが書かれていた。

その時は何日も病院に来ていて、父に生きててほしい気持ちと死ぬことを待っているような状況にとても疲れていた。
友達の投稿は目が覚める気持ちがするものだった。

病室で何気なく母にもその投稿を読ませた。
読んだ後、母は父に感謝の気持ちを伝えていた。
父にありがとうと伝えるのは初めて見たような気がする。もう意識はほとんどない父が、握っている手を握り返してくれたと喜んでいた。

昼過ぎくらい、あまり容態に変化がない様子だったので、母とわたしは一度家に戻ることにした。14時過ぎだった。
病室を出る前に父に声をかけたとき、父の顔が死んだ人の顔になっているように思えた。
そしてかっこつけの父はわたしたちが見ている前で息を引き取ることはないのではないかということもよぎった。

家に戻り30分くらいすると、病院から電話があり、見回りの際に息を引き取っていることを確認した、とのこと。
たぶんわたしたちが帰ってしばらくしてなくなったのだろう。父らしい最期だ。

人は死ぬのだ。なぜ死ぬのか、いつ死ぬのかはわからない。
でも、死ぬことが怖くなくなったいうと違うのだが、当たり前に訪れるもの、そして思い通りにはならないけど、死ぬ瞬間もその人らしくあれるのではないかと、なんとなく思えるようになった。

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