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この夏の、父と私とお大師さん

「美穂ちゃんを美穂ちゃんとわかるうちに、徳島に帰って来れんだろうか」
そんな電話が母からかかり、私は当初の予定をすべて書きかえて帰郷の支度をした。
徳島が一年で最も混む時期であったが交通機関の予約もすべりこみで取れて、三年ぶりの帰郷となった。

眉山が見えてきた

父は、
柔道で鍛えた体躯と 
独学でグレの磯釣りで頂点に立ったセンスの持ち主で、

ポスターになった父


祖父から継いだ身内を大事にしていたので、盆暮れの集まりは それは賑やかだった。
また、意に沿わぬものは怒号でその場を収めてしまうようなカミナリ親父でもあった。

そんな負けん気と自尊心の強い父親が、今どんな日々を暮らしているのか想像することも出来ず、
気の重い荷支度をした。
気の詰まるような滞在かも…その中で一日でも自由にさせてもらえるなら 息抜きなんていうと不謹慎だけど、歩き遍路をしたいな と、
道具一式も詰め込んだ。

どんな顔をして声で、闘病の父に会えばいいのだろう。。

そうも思いつつも、
玄関の戸を開けながら口から出てきたのは
帰ってきたときのいつもの言葉、「ただいま~」
だった。

障子の向こうからいつものように
「あぁ あぁ、 美穂ちゃんじゃ、
おかえり~」
と歓迎の、母の声がした。
障子を開けると居間にベッドが入っていて、手前に父の 伸びた白髪が見えた。
母が耳元で「美穂ちゃんじょ。帰ってきたよ」と説明している。

その言葉の続きのように顔を覗き込んで「ただいま~」と父に声をかけると
能面のようだった表情筋がにわかに動き出して目を見開き
「美穂さん」
と言って手を伸ばして、私の手を 頭を 触れてきた。

そういや父は、頭をなでたり 長じては肩に手を置いたりと、触れることをよくする人だったことを思い出す。
成人して 嫁いで長野に来てから(やーくんは別にして)本当に人肌に触れなくなったなあ とも気づいたりして。

耳も遠くなっていたり、発声が難しく声帯を使わないささやくような話し声なので 何度も聞き直したりした。
それでも私を認識不能といった様子は認められず、根本はしっかりしていた。
6月頃は 歩いて外食にも出かけていたというのに、この短期間で あれよあれよと出来ることが削り取られていってしまった。受け入れる心の準備も出来ていなかったのだろう。

「夢を見ているようだ」
「なぜこんな事になったのだろう」
「わからん」

父が絞り出すように発する短い言葉を聞きながら
私は同時に それを何処かで既に聞いた…いや、見た言葉だと、感じていた。

「山月記」だ。

父の 内から湧き出てくる表現は、まさしく登場人物の李徴が味わった不合理と矛盾。

この救いは何処にあるのだろうか。

・・・・・・・・・・・・・

もう十年になるだろうか、数年続いた家庭の荒廃の事象を 後手後手に対応しながら
空費されていく自分の人生に嘆き 
満身創痍の疲れた頭に浮かんだのは
「徳島に帰ろう」だった。

当時、格別 能動的に信心深かったわけではないのだけど、育ってきた折々の記憶の欠片から
お大師さん (四国ではこう呼ぶのが、空海のこと)
八十八ヶ所
そんなピースを求めて帰郷した過去がある。

その時 種田山頭火の句をともにしながら、こんな詩を描いた。

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思惟の道

20XX年 帰郷し
四国八十八ヶ所の歩き遍路に出る。

しばらくは 次の寺 次の寺を目指して
歩いていた。
が、そのうち 納経したり、御朱印集めが目的でなくなり、

今 踏み出すこの一歩が 大事に思えてきた。
調子良かろうが 痛む足だろうが
踏み出す 一歩 一歩。

分け入っても 分け入っても 青い山
           種田山頭火

本当は 
答えに向かっているのでなく、

答えを探している姿が 答えなのかもしれない

その時に描いた絵 
狂気入ってて(笑)もう描けない

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あのときは、
たまたま読んだ 新聞記事に載っていたオリキュラメソードに出会って、
効果の出始めた一年後くらいまでも
気の休まらない日々が続いた。
それでも何かが、日々歩むことを後押ししてくれて、のりきれた。


話がそれてしまった。

一日もらった歩き遍路から帰ってきて うがい手洗いののち
顔を覗き込んで「ただいま~」とあいさつする。
母が「美穂さん、歩き遍路に行ってきたんじょ」と補足したときのこと。
てっきり「ほうかほうか」みたいな返事を予測していたら、眉をしかめ
「ほんな ひとりで あぶないことして~」と、
予想外のお説教。

それは我が夫の心配性に通じる感情であり、
明らかに父の中に(守りたい大切な存在・美穂)
を現した態度だった。

そうか、父の中の 自分の境遇にばかり目を向けがちなベクトルを、
貴方には他にも有るよ と知らせる。そんな役回りが私なのかも…と、
感じた。
私がいる間、父との会話が成立するようになって、
「ほうか、みほにほういわれて なんやらちからがでてきたわ」
そんな前向きな言葉も出てきていた。

いにしえより
遍路での八十八ヶ所は、
命がけであったり
命を落としたり、


願をかけたり
(本当に叶うと思ってるのか?)みたいな願いであっても。
庶民のレジャー代わりでスタンプラリー的であっても、
昨今では
若者の力試しや
トレイルランニングの格好のトレーニングルートにと
その時代その時代を生きる人間を受け入れてきた。

人間の、
軽薄な一面だけでなく
弱さも 
もろさも 
強さをも。。
それぞれの気づきにつながり、再びの俗世の歩みの力になってきた。

手を合わせること、
唱えること、
そして歩くことで、
いろんなコト・モノがあらわになってくる

一人ではあったけど、孤独ではなかったんだよな。
あの感覚を、私はお大師さんの存在感『同行二人』だと思っている。

長野に戻るという前日、父が発熱してしまう。にわかにあわただしくなった。
かかりつけの医師に、翌日来院するよう指示を受ける。
ただ、実家はエレベーターもない雑居ビルの四階。
一度福祉タクシーに頼んだけれども、対応するのは二階まで と断られたとのこと。
歩けない・立てない父を どうやって階下に下ろし車に載せ、病院まで行くというのか。

それとともに、
長野にも 基礎疾患があり福祉を利用している家族がいる。
検査結果次第では、そのまま長野の自宅に戻るわけにはいかなくなる。
アレヤコレヤの想定をして焦ったり、電話口の夫の提案に 思いこみで頭にのぼっていた血がおさまったり。
(後日談:母から父陰性の連絡あり。私も検査を受けて陰性。ホッ)

翌朝七時、出勤前の姉夫婦との四人でシーツ担架で踊り場ごとに休みながら
落とさず全員汗だくで
なんとか地上に降り立った。

車に乗った父に手を振ったら、同じだけ振り返してくれた。
私も午後には徳島を出るので、もしかしたら今生の別れになるかも…だけど、不思議とそんな気はしなくて

それだけ手が振れるなら大丈夫だ!と、
親指を立てて『いいね』をしたらなんと、
父も同じ『いいね』を返してくれた。

その時の茶目っ気たっぷりの表情といったら!(笑)

I'll be back

父が シュワルツェネガーに見えた。

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