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あなたのいない世界を こうして心を整えてゆく



いつものように過ごしていて
夕飯の前にお風呂に入りに行ったのだが あまりに遅い、、と
様子を見に行ったそうだ。


その日 息子家族である私たちは
ウォーキング後の 
入浴後の 
買い物後で、
ずっと運転していた夫が
帰宅してから着信に気がついた。

義父が亡くなっていた。

夫は狼狽した様子のまま
病院へと車を跳ばして行った。
その日は帰ってこなかった。

実はその一週間前
息子やーくんの作業所が休業だったこともあり
思いたって長野より一足早い山梨の桜を見に行き、帰りに
義父母宅へ様子伺いに寄ったのだ。

一緒にお茶してお菓子をいただき
たわいもない話をして『じゃあね』と帰宅したのだった。

ただ その時の話の中で
前日にめまいを起こして倒れ
救急車に運ばれた旨 
聞いたこともあって
また、
息子である夫は昔から
一向に自分からコンタクトを取ろうともしないので
『電話したりとか、会社帰りに寄ったりとか、時々は様子見たほうがいいよ』
などと老婆心ながらひと言伝えていたところで、
翌日だったか『電話した』
なんてノルマ達成的ではあったものの
話が出来た矢先だった。

私が嫁いできての前半11年、
一緒に暮らしていた頃は
特に話もなく趣味も合わずで
接点はなかった。

別々に暮らすようになって
数ヶ月に一回は高速道路で様子を見に行くようになり、
私も歳を重ねたからか、わだかまりもなく 
たわいもないような話を出来るようになった。そして関わってみると引き出しがいっぱいある人で 話をするのがとても面白かった。



半径5kmで人生を語れる人だった。
市内の高校に通い
産まれた家で家庭を持ち、
市役所を定年まで勤め上げた。

木落とし坂からの茅野市役所 遠望


私が知っているのは、
茅野市議会事務局長として三揃いのスーツに送迎付きで勤めるギラギラしている姿だった。

人望も厚く、
姉妹都市から 退職してのちも変わらず名産品が届くような人柄だった。

地域や林野や
いつも何がしかの役員をして

旅行に行けば、
趣味の写真を撮って映っている人全員に 
写真を焼き増しして配るような人だった。

昨今の
儀式省略化傾向とコロナ禍のご時世

にもかかわらず
200人もの参列者があった。
出棺で自宅の前を通ると
近所の人が大勢待っていてくれて
胸に迫るものがあった。

地域に根ざした生き方だった。


反面
残念だったのは、
そんな 配慮に配慮の人間関係の狭間での
もろもろのガス抜きだったのか、
家族には素をぶつけて家の居心地を自ら悪化させているような傾向を、私は感じてしまっていた。(私が言葉や態度の文化的背景が違うので、こちらの地域はそれが通常だったのかもしれない、決して悪口ではありませんあしからず)


恋愛や
友情って

顔がタイプとか
趣味が同じとか
嗜好が似てるとか
で繋がっていれば成立するように思う。

だけど夫婦って
対立したり
嫌悪したりもある上で、
有事の際には
息を揃えて
相手の行き届かないところは補い
物事を進めていく
的存在 な
気がしてきたところだ。

特にうちでは
発語もなくどこまで状況理解可能か未知な やーくんを連れての 喪主とその妻となるわけで、
今回急だった分、支援利用も無理だったし
小さい時一緒に住んでいて、発達の遅れのあっても やーくんを可愛がってくれたおじいちゃんとのお別れに立ち合わせてあげたいとも願った。

喪主の妻とやーくん

その部分で私と夫は
絶妙なコンビネーションをとれる、ということを今回実感したところだ。

有事の際の存在なので、
平時は
昼行灯で良いのだ。

『夫婦は線』
自分達の有りようとは別につくづく感じたのが
私が来てからでも三十有余年、
嫌悪を通り越して憎悪すら抱いてるのでは…なんて映っていた態度のおばあちゃんの落胆の様子

出棺時に
絞り出した『じいちゃん…!』
あのひと言に全てが含まれていた。
はたからはいがみ合ってるように見えるやりとりさえも、安心しきったお互いの愛情表現だったのだろうな
人間関係のありようなんて、ほかの者がとやかくと評することでもあるまいが。。

でも私には あの場面が記憶に焼きついているのだ。

二男のジョンくんも、
急きょ東京から帰省してきた。

彼女が出来た。
良い愛情を育んでいるのだろう、
所作のあちこちで『ありがとう』
言葉を言うようになっていた。
心の安寧は態度・言葉となって染み出してくる。

それにしても

改めて

『会ってないけど行けば会える』と
『もう会えない』が
こんなに違うとは。

今年に限っての元旦分年賀状の後に 届いた年賀状 今まで手書きの一言なんてなかったのに

それでも生きていく

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