女心と秋の空っていうの、いいよね。
毎日英語に触れていると、ふとした日本語の表現にはっとさせられる。
まあ、最近色々と、遅々として進まない手続きに感じる焦りを自分の中に飼い慣らしていて、心変わりというか心の在り方みたいな自分の内面と向き合う事が多いから、コロコロ変わる自分の心でさえ持て余していて「女心と秋の空」なんて言葉が降ってきたんだけどね。
昨日と今日では全く違う事を思っていたりする。そんな女心を昔の人は上手いこと秋の空とくっつけて、後世にまで託している。
女心と秋の空
上手い事を言うなぁと思う。1日の中で空のように心変わりをするような事はなくても、女心は昨日と別人のように変わっていたりする。
それはもう、日常茶飯事に。
あぁ、でも、思い返してみると、来ないメールの返信に「もう気にしない!」って思って好きな事をしようとしてみるけれど、結局気持ちは切り替えられなくて「なんで返信くれないの!」って怒ってみたり、一方通行の自分に突然悲しくなってみたり、様子を見かねた友達からの電話には爆笑できたり、やっぱり女の表情はコロコロ変わる。
若い頃なんて毎日がそんな感じ、‘秋の空’だった。
男はこの言葉に救われ、いつの時代も悩みは一緒なのかと慰めにしていられるのだろうか。
振り回される男はたまったもんじゃないよね。
慰めになどならずに、嘆いてできた言葉が「女心と秋の空」なのだろうか。
どうか、そんな心変わりですらもかわいいと思っていてほしいと都合よく願ってしまう。
「男」と「女」という単純に2つに分けた性別の中で、女だけには心変わりを肯定してくれている。そこは優しさなのか諦めなのか。どっちにしても女の私としては心変わりでさえ「女」ならと一括りにされ、許されるならそれもまたよし、と思う。
日本語のそんな趣が好きだ。単語に意味を持たせ、「秋の空」という単語の中に「変わりやすい」という含みを持たせていたりする。秋の空よりも‘夏の空’とかのがずっと変わりやすかったりするのに。
それでもやっぱり、夏より秋なのだ。
寂しげで、儚げで、切なさが伴う秋でなければいけないのだな、と常夏のマイアミで日本の四季に想いを馳せてみる。
言葉の裏を読めっていう日本の慣習のような考え方は嫌いだけど、単語に含ませた意味を感じ取るのはとても好きだ。
英語を勉強すればするほど、日本語ほど奥深くて難しくて、美しい言葉はないなと思ってしまう。
ホームシックではないけれど、日本語の本やマンガがとても恋しい。いつでも手に取れる距離に好きな言葉が書いてあるものを置いておきたい。どれだけ、活字中毒でも英語には不感症を発揮しているから、なかなかリーディングが進まないのは仕方のないことなのかもしれない。
明日には心変わりして、英語の文章もスラスラと読めるようにならないかな。
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