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初転法輪大祭の、お祝い(2023年)

本日(7月21日)はチベット暦六月四日で、仏陀釈迦牟尼の四大祭の1つ初転法輪大祭(チューコル・ドゥーチェン)という大吉祥日にあたります。

この日は、釈尊が成道されて(悟りを開かれて)から7週間後、梵天や帝釈天のリクエストに応じて、インドのサールナートという地で教えを説かれた日(初転法輪)という、仏教徒にとって決定的な記念日になります。

善業をこの日に積むと十万倍以上に膨らむ吉祥日と、信じられています。

そこでツォクを含む釈尊の儀軌を午後9時より執り行ないます。

サポートいただいた方に対しては、燈明を一晩中灯して供養をし、御祖先の御霊への廻向とします。


以下、過去記事より転載です(一部、加筆修正しました):



仏教には「勧請」(かんじょう)という、大切な考え方があります。

仏教の貴重な教えは、私たちが師に対してリクエストすることではじめて与えられるものであり、「どうか私たちに法を説いてください」という積極的態度、リクエストが必要なのです。

仏教の根本であるこの精神は、実はとても大切だと思います。
学校の授業のように、(お金を払って)教室に座っていれば先生が来て教えてくれる。テキストも学校が用意してくれる・・・という類のものではないです。

仏教においては、私たちが(仏陀をはじめとする)先生に「転法輪勧請」(教えを説いてくださいとリクエスト)することで、自分にとっても善となりますし、世の中に仏教の教えが残ることにもなりますから、大変重要です。

そして勧請の起源は、仏陀が法を初めて説かれた今日にまで遡ります。


釈尊は、成道されてから7週間、ずっと沈黙を保たれていました。
この悟りの境地を皆に説明しても、誰も理解してくれないだろう・・・と思われたからです。
釈尊の悟りは、一般人が普通に考える「幸せ」とは逆行する内容でもあるので、受け入れられないだろうなと。

以下、意訳せずにチベット語の経典を直訳すると:

深遠で、寂静で、戯論を離れ(ながらも)光明で、無為である
あたかも(一切衆生の病を治す)甘露のような法を、私は悟った
誰に説いても、理解できるものではないから
語らずに、森の周辺に留まろう

そうおっしゃって法を説かない態度でおられたとき、梵天たちが以下のように述べて、リクエストを求めたと言われます:

なんということでしょう!
あらゆる有為法は、恒常なものではなく
生じれば滅するという性質を有しています
生じれば滅するのですから
輪廻への転生をなくすことは、なによりも幸せなことでしょう


私たちの体や心も、世の中の仕組みも、すべては有為(うい)、つまり条件と原因に依存して生まれたものです。輪廻のあらゆる現象や事物は「有為」に分類されます。

しかし釈尊の悟られた境地は、原因や条件から生じたものでもなく、単に条件付けが欠如しているものでもない、無為(むい)のものでした。

本当の幸せは「条件付けの世界」(有為)にはなく、無為を悟らないと得られないよ。条件付けされたものに執着しても、苦しみが増すばかりだよ・・・と言われたら、現代でも理解は得られないかもしれません。

そこで梵天たちは、釈尊の『前生譚』(ジャータカ)、つまり釈尊の数々の前世に実施された、死ぬほど苦しかった過去の修行の数々を列挙しはじめたのです。

「あの生であなたは、自分の体をくり抜いてまで燈明を用意して、仏陀(ここでは過去仏)に供養したじゃないですか」

「あの生であなたは、自分の体に千本の釘を刺して苦行したじゃないですか」

「3大劫の間、数々の苦難をなした後に悟りを達成したのですから、どうして法輪を転じないのでしょうか?」


などと梵天は釈尊に過去世の苦行・菩薩行を思い出させることで、なんとか無為の教えを説いてくださるよう懇願をします(「梵天勧請」の故事)。

仏陀は思い出を持たない(忘れているわけではなく、執着していない)ために、周囲が言って聞かせて、思い起こさせる必要があったのでしょう。

そして梵天は、千本の車幅のついた黄金製の輪(法輪)を釈尊に捧げました。また帝釈天は、右巻きの白い法螺貝などを釈尊に捧げます。
(この2つは今でもチベット仏教では「吉祥」とされ、重要なモチーフになっています)

そうして、神々のリクエストを受けて釈尊はようやく:

梵天よ
マガダ国の人々は
法話を聴くだけの耳を有していますし、信仰心や智慧もあります
非暴力だし、気持ちは常に法を聴聞することにありますから
彼らに、甘露の門を開きましょう


とおっしゃって、サールナートにあるリシパタナ(鹿野園、鹿野苑)という場所で初めて法を説かれたのです。
このときの教えは、「苦・集・滅・道」から成る「四諦」でした。

ここから始まる初転法輪、つまり初期の法話はサールナート中心で説かれ、主に「善を為して悪を制御する」という「律」の教えとなりました。

その後、霊鷲山りょうじゅせん(Gṛdhrakūṭa;グリドラクータ)や王舎城(Rājagṛha;ラージャグリハ)での説法に移ると、第二転法輪つまり「空性」の教えが説かれるようになります。『般若経』や『法華経』などはここで説かれました。

さらにヴァイシャーリー(Vaiśālī;毘舎離)という地では、第三転法輪つまり「了義」の教え、「如来蔵」系の教えが説かれるのです。


本日の経緯を長々と書いてしまいましたが、それだけ仏教徒にとっては意味のある日ということで、本日は釈迦牟尼仏の特別な儀軌を組み込んだ供養法を厳修します。


サポートは、気吹乃宮の御祭神および御本尊への御供物や供養に充てさせていただきます。またツォク供養や個別の祈願のときも、こちらをご利用ください。