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意味反転する、経文

Twitterでは、いわゆる「訃報ツイート」を目にすることがあります。

面識のない私でも、ご遺族が代わりに投稿するそのツイートがタイムラインに飛び込んでくることで、つらい闘病生活を送っておられた様子を知らされます。最後のツイートまでその方は生きておられたのだと思うと、「いいね」は押さないけども、毎日の行のなかで御廻向をさせていただきます。

毎日、多くの命が輝きを放ち終わって、この世を旅立ちます。

ほんの僅かでも作法を知る者として、旅路の助けになればという気持ちがあります。でなければ、何のための行者なのかと思うわけです。

ホントに私は「後ろ向き」にできています。

20年ほど前、家族を突然に亡くしたことがあります。

その時はまだぎょうを始めて間もない頃でしたので、故人にどういう祈りをすればいいのかわからず、死の恐怖に脅え、寝ることもできなくなっていました。

そのとき、チベットの師匠は


「普段唱えている経文をきちんと、意味を考えながら唱えなさい。それが故人に対しても一番いい」

とアドバイスをくださいました。

当時の私は、五十万回の密教の加行けぎょうの経文を唱えていました。普通に唱えれば15分くらいかかる長さですが、どこにも死者への祈りは記載されていません。

いつもと同じ調子でその加行の最初の文句から唱えはじめたところ、とんでもないことに気づきました。

書かれている内容がすべて死者のための教誡として、意味が反転したのです。

一語一句がすべて、故人への直接のアドバイスとして、完璧なまでの整合性を備えた一冊になっていました。

「今、ここにお加持かじが働いている」と、とっさに理解しました。

お加持が働くと、経文に隠された別の意味が顕わになっていくんだということに気づきました。そんなこともわからない私は、ただやみくもに経典を読んでいただけで、本当に愚かでした。

ですので、皆さんが日常的に唱えていて慣れ親しんでいるお経こそが、死者の供養にはふさわしいと思います。なにより、そう信じ切ることが必要です。



数年前、私の大事な師の一人がシッキムで生涯を終えられたため、師の葬儀に参列したことがありました。

シッキムにて。撮影:気吹乃宮

チベット仏教では高僧・活仏を荼毘に付す際は、中央に巨大な白い仏塔(護摩壇)を築き、そこに御遺体を安置します(上の写真)。

その四方に東西南北の壇を設けて、それぞれ縁の深い寺院から招かれた高僧たちが導師として儀軌を執り行ないます。

儀式が始まって、どんな儀軌を僧たちが使うのかと思ったら、上述の「加行の経典」を冒頭からそっくりそのまま唱えだしたので、大変驚きました。

たしかに加行の経典は誰もが馴染みやすい(暗記してる)から選ばれたのかもしれませんが、高僧レベルの葬儀においても使用されるということは、加持を働かせるには最適な経典だったからともいえます。

「たかが加行けぎょう」と、バカにはできないわけです。
「加行こそが本行」とは、よく言ったものです。

そんなわけで、その加行の経典は私にとって思い出深いものとなりました。

加行の最終段階はひたすら加持を受けるもので、「グルヨガ」とも「本師瑜伽」とも呼ばれます。でも名称はどうでもいいのです。加持をどう働かせて自分の器に受けるかがすべてなのです。

故人に対しても同様です。加持の力で引っぱっていただけるかどうかが大切で、そのために経文は意味反転し、姿を自在に替えてきます。

私はそうした加持を亡くなった方々のほうへ向けることが多く、それが「後ろ向き」と自分を表現している理由なのですが、いま思えば、経文のすべてが反転した20年前に、その覚悟はできていたんだと思います。

あれから私は、どうすれば故人に祈りが届くのかを追究するようになっていって、多くの伝授もいただきました。それでもなお、「お加持」より重要なものはないと、今でもわりと真剣に思っています。


サポートは、気吹乃宮の御祭神および御本尊への御供物や供養に充てさせていただきます。またツォク供養や個別の祈願のときも、こちらをご利用ください。