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仏教版「母の日」、ラバプドゥーチェン

本日(10/27)はチベット暦九月二十二日で、「ラバプ・ドゥーチェン」(Lhabab Duchen)という吉祥日です。
これは釈尊の四大祭(四大節)の1つで、仏教版「母の日」です。

釈尊の生母マーヤー・デーヴィー(摩耶まや夫人)は釈尊が成道される前に亡くなって、三十三天という天界に生まれ変わっていました。
釈尊は母君を悟りに導き、また天界の神々にも教えを説かれるため、天界に赴き、そこで法を説かれました。
結果として人間界での不在が三ヶ月間続いたため、弟子のマウドガリヤーヤナ(目連尊者)の懇願によって、梵天をはじめとする神々が用意した階段「三道宝階」を使って釈尊が天界から地上に降りてこられた日が、本日にあたります。

この日に積んだ福徳は一千万倍にも膨れ上がるとされますので、今日だけは肉・魚・酒を断って、釈迦牟尼仏を本尊とする儀軌を中心に、サン供養(チベット式柴燈護摩)、スル供養(煙供)、ツォク供養を厳修する予定です。

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(10/28 16:00更新)
昨日のラバプ・ドゥーチェン大吉祥日の、一連の供養儀軌が無事に終了いたしました。ご賛同いただいた方には改めて御礼申し上げます。


ところでラバプ・ドゥーチェンは「生母摩耶説法伝説」「三道宝階降下伝説」の2つの伝説が元になっているとされます。

そのうち前者「生母摩耶説法伝説」は、釈尊入滅後200~300年後にはすでに成立していて、インドの民衆に対しても父母への報恩行が推奨されていたと考えられています。

釈尊の前世の物語をまとめた『ジャータカ』(本生譚)にも、釈尊が摩耶夫人の住まう三十三天に上り、説法をされたという話が登場します(サラバミガ・ジャータカ)。

もう1つの「三道宝階降下伝説」についても、紀元前3世紀にはすでに民衆に流布していて、アショーカ王は釈尊が天界から降り立ったとされる聖地に石碑と石柱を建てていて、それが現存します。

学者の間では「原始仏教は祖先崇拝や死者への追善供養を否定していた」としますが、ヒンドゥー教社会のインドの民衆レベルでは実際、日常的に死者への追善供養が盛んに行なわれていました。

『増一阿含経』第28聴聞品には、父母に対する孝養が説かれています。
父母の生死に関わらず父母を敬い孝行するという考えがすでに当時からあって「釈尊ならこうあってほしい」という民衆の願いによって、この2つの伝説が1つになったという見方もあります(※)。

もっとも私は仏教徒ですから、2つの伝説はどちらも事実だと考えています。しかし当時のインドの人々の想いを知る上で、上記のような考察は意味があるでしょう。


釈尊の儀軌をしている最中に、母から電話がありました。
夜8時過ぎに母から電話がかかってくることは滅多にないので、行の最中なのに電話に出てしまったのです。

その電話のおかげで30分くらい時間を割くことになってしまったのですが、母はとても困っていて、パソコンの使い方でどうしてもわからないことがあり、電話してきたのです。
あれこれ電話でやりとりをしてようやく解決し、安心して母は電話を切ってくれました。

行は最初からやり直すことになったのですが、ふと今日は「ラバプドゥーチェン」であることを思い出しました。

少しは孝行になったかなと思いつつ、釈尊の慈悲と加持が強く働いているように感じて、自分が電話に出たことは間違いでなかったと思えるようになりました。電話で声を聴かなかったら、「生母摩耶説法伝説」の本質を忘れていたことでしょう。

南無本師釈迦牟尼仏。

次回のツォク供養は10月31日(日)のダキニの御縁日になります。
新月は11月4日(木)で、この日もツォク供養を執り行ないます。

近づきましたらここ(note)で告知をいたしますので、よろしくお願い致します。

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釈尊と弟子たち。
ナムドゥルリン寺(南インド、カルナータカ州)の壁画より。撮影:気吹乃宮


※下記の文献を参考にした:
宇治谷 顕「釈尊の生母摩耶説法伝説の背景」(印度學佛教學研究第57巻第1号、2008年)

以上の記事は、原題「ラバプ・ドゥーチェン大祭ツォク供養の、お知らせ ※無事終了(10/27)」を改稿したものです。

サポートは、気吹乃宮の御祭神および御本尊への御供物や供養に充てさせていただきます。またツォク供養や個別の祈願のときも、こちらをご利用ください。